黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

舞台の間口について~歌舞伎の場合~

 

歌舞伎の公演が定期的に行われる劇場は全国各地にあるが、歌舞伎役者にとって歌舞伎座という場所はやはり特別な本拠地だと感じているようだ。それはもちろん歌舞伎を観るファンにとってもおなじだろう。現在の歌舞伎座は二〇一三年に建て替えられ再開場したが、二〇一〇年に前の歌舞伎座が取り壊されてからの三年のあいだ、新橋演舞場などで代替公演は行われてたものの、わたしたちはなにかあるべき中心がそこないような不思議な感覚に襲われていた。

ほかの劇場で観る歌舞伎と歌舞伎座のそれがまったく違って見えるのは、けっしてそのような精神的な意味合いだけではなく、歌舞伎座の舞台の独特なスケールによる。とくにその間口(舞台の横幅)の広さは、観るものへの印象はもちろんのこと、そこで行われている芝居そのものにも少なからず影響がある。

 

現在の第五期歌舞伎座は高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」の一部にはなっているが、劇場部分は基本的に第四期の歌舞伎座を踏襲したもの。舞台のサイズも間口九一尺、高さ二一尺と、以前と全く同じものが採用された。九一尺というと、十五間と一尺つまり27.6mである。これは空襲で焼けた戦前の第三期歌舞伎座もほぼおなじで、これは歌舞伎公演が定期的に行われるほかの劇場とくらべると、圧倒的に幅広な舞台である。

 

 【歌舞伎座】

  間口 27.6m 高さ 6.4m

 【新橋演舞場】

  間口 20.0m 高さ 不明

 【国立劇場(大劇場)】

  間口 22.0m 高さ 6.3m

 【南座】

  間口 18.1m 高さ 7.2m

 【松竹座】

  間口 17.3m 高さ 7.3m~9.0m可変

 

もちろんこれは機構上のデータなので、実際のアクティングエリアがそのままということはないが、こうして具体的な数字くらべてみると、歌舞伎座の舞台の間口の広さが突出していることがわかる。また、間口だけではなくその高さとあわせてみれば、異様なまでのその横長さが際立っている。横縦比は4.31:1となり、映画で云うところのスコープサイズ(ワイドスクリーン)のアスペクト比が2.35:1であることを考えると、歌舞伎座のプロセニアムは尋常ではない形状なのである。

これだけサイズが違うのだから、舞台の大道具もそれにあわせてさまざまに工夫をしなければならない。また、役者の立ち位置も変われば、歩く距離も変わる。歌舞伎が見えている構図そのものにも重要な意味をもたせる「絵面」の演劇だとすれば、劇場によってそれはまったくちがったものになっているはずだ。歌舞伎座とほかの劇場で観る歌舞伎がまったく印象が違うのはあたりまえのことなのである。

 

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第五期歌舞伎座の舞台

 

だが、それは歌舞伎座の特権性を意味するものではない。たしかに『助六』や『暫』のように大勢の役者が賑やかしく居並ぶものや、『仮名手本忠臣蔵』の「大序」のような儀式性を持った演目であれば、歌舞伎座の舞台はそれにふさわしい空間にちがいない。だが『勧進帳』や『外郎売』といった能から取材したいわゆる松羽目もののように登場人物が少ないものや、前述の『仮名手本忠臣蔵』の六段目や『双蝶々曲輪日記』の「引窓」のようなリアルな演技が要求される演目においては、その横に長すぎる舞台は間延びした印象を与えかねない。

もちろん、実力をもった役者であればその空間を「埋める」ことができる。よい役者は観客の眼をひきつけるので、舞台上の余剰な空間は気にならなくなるからである。むかしから歌舞伎役者は師匠や先輩役者から「歌舞伎座の舞台に立てるような役者になれ」と云われてきたそうである。これは歌舞伎座というステイタスのある劇場で役をもらえるようになれということと同時に、広い歌舞伎座の舞台の隙間を「埋める」ことができう芸を身につけろという意味でもあるだろう。

しかしどんなに役者がその芸で観るものの眼をひいたとしても、スターに目を奪われるばかりが歌舞伎ではない。役者と役者、大道具と役者との視覚的な位置関係が、そのドラマにおける関係性をあらわすということが歌舞伎における重要な要素のひとつであるならば、やはり広すぎる舞台が根本的に作品を損なっている面は否定できないだろう。そもそも、貧乏長屋が舞台であるはずなのに、その部屋がどこかのお屋敷の大広間と見紛うようなただっ広いものになっているのは、考えてみればおかしな話である。

 

江戸時代の芝居小屋は、そこまで間口が広くはなかった。明治になって、西洋の劇場に負けないものをと考えたのかどうかはわからないが、急速に間口は広くなっていく。歌舞伎座の異様に横長な舞台について、絵巻物の文化が歌舞伎の美意識のなかにあるからだ、といったような言説を眼にすることがよくあるが、それがきわめて限られた見かたであることは明白だろう。現在では四国の金丸座や国立劇場の小劇場が間口が六間から七間で、そこで上演される歌舞伎は明治以前はどれくらいの舞台で演じられていたかを想像させてくれる。

天保十一年に『勧進帳』が初演されたのは間口七間(約13m)程度の河原崎座だった。間口28mの現在の歌舞伎座と間口18mの南座とで、おなじ役者が演じる『勧進帳』を短期間につづけて観くらべたことがあるが、後者が圧倒的な緊迫感をもった素晴らしい上演に感じられたのも、その舞台に広さは無関係とは思えない。

歌舞伎座が歌舞伎の殿堂でありつづけるためには、演劇やオペラなどではしばしば行われるように、演目によってはプロセニアムを狭めるなどといった、作品と役者を生かすための工夫がもっと考えられてもよいのではないだろうか。

 

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安政五年の市村座



 

新国立劇場『フィレンツェの悲劇/ジャンニ・スキッキ』(新国立劇場オペラパレス)

 

ふたつのオペラを組み合わせた、いわゆる「ダブルビル」シリーズの第一弾として、ツェムリンスキー作曲『フィレンツェの悲劇』とプッチーニ作曲『ジャンニ・スキッキ』が取り上げられた。演出は粟国淳、指揮は沼尻竜典。

 

二十世紀初頭のほぼ同時期に作曲されたこのふたつのオペラは、フィレンツェを作品の舞台としているという共通点を持つ。フィレンツェはいまでこそレトロな街並みが楽しめる観光地であるが、これらのオペラの舞台として想定されている中世末期の共和制のはじまりからルネサンス期にかけて、かの街はヨーロッパ屈指の商業都市であった。その発展をささえたのは金融業と毛織物工業であるが、それはまさに、お金とファッションという実態のない人間の欲望の象徴でもある。『フィレンツェの悲劇』と『ジャンニ・スキッキ』を並べたとき、モチーフとしてそのふたつを容易に頭に浮かべることができる。

 

粟国の演出は理詰めというよりもきわめて感覚的なもの。どちらのオペラも、イタリア的な色彩を感じさせる、かなりデフォルメされた美しい舞台装置(横田あつみ)のなかで演じられる。

『フィレンツェの悲劇』では崩壊しふたつに割れた建物(破綻した夫婦関係を連想させる)が中央にそびえ、そこから巨大な布のようなメタリックなオブジェが冷め固まった欲望のごとく流れ出ている。無数の糸を紡ぐ糸車が象徴的に舞台にならぶ。高価な織物を売りつけるシモーネ、交換対象として浮気相手であるシモーネの妻を求めるグイード。欲望の対象としてのモノを金でやり取りすることが暗示されるなか、最後は暴力によって権力を持つものが残るという、オスカー・ワイルド(原作)にしてはいささか観念的にもとれる話。

このシンプルなストーリーを、粟国はそれらの象徴的な部分にひかりをあてるでもなく、また内面のドロドロした三角関係の心理劇を強調するわけでもない。歌手の動きも基本的なオペラ芝居の典型を出ない。よく云えばオーソドックスな、古き良きイタリアオペラ(これはドイツ語の作品だが)のレパートリー公演を観ているようである。それがはたしてツェムリンスキーの豊麗な音楽の世界にあったものだったかといえば疑問は残る。あちらこちらにある心理的なポイントはことごとくスルーされてしまう。とうぜんのことながら、愛する恋人を殺した夫への愛を妻が突然歌いあげるという唐突な結末は、説得力がないままだ。権力が生みだす倒錯的な欲望をみせるこの衝撃的な結末は、説得力をもって示されてはいない。

『ジャンニ・スキッキ』では巨大なスケールの机が基本舞台で、そのうえにはこれまた巨大な本や文房具にまじって経済活動の象徴である天秤測りが鎮座している。あまりにおおきなオブジェたちのあいだでたくさんの登場人物たちが右往左往するさまは、それだけで欲に目がくらんた凡夫たちの哀れさを強調していて大成功。アクティングエリアとなるその机の面は、オーケストラピットに迫るぎりぎりまで迫り出した八百屋(傾斜のある舞台)になっており、そのうえで歌い演じる歌手たちはヒヤヒヤだったのではないだろうか。だがそのシチュエーションそのものが、ともすれば破滅に向かって転げ落ちてしまいかねない強欲な人間の危うさは確かに表現している。ソリストたちのカラフルで個性あふれる衣装も、それぞれの性格をあらわしており見ていて面白い。

天秤の片方に死んだブオーゾの遺体を乗せ、もう片方に金貨を乗せるシーンがあり「人間の価値と尊厳に値をつける」ことにブラックなユーモアを感じドキリとさせられたのだが、その後天秤はかなり無造作にいろいろと使いまわされており、せっかくのその存在はいささかぼやけた。このあたりが粟国の演出が良くも悪くも感覚的というところである。

ブオーゾが息を引き取り、かつスキッキが隠れるベッドは、巨大な本(タイトルはダンテの『神曲』と読める)。表紙をめくったなかは「地獄篇」の挿絵(ドレによる有名なもの)だが、それはジャンニ・スキッキの名前が登場する第三十章のものではなく、第十章のファリナータについてのそれである。それはたまたま選ばれたものなのか、それともそこに意味を見出すか、考えてみるのも面白い。

 

キャストでは『フィレンツェの悲劇』の分厚いオーケストラのサウンドのなかにあって、レイフェルクス、グリヴノフ、齊藤純子の三人がいずれも難易度のあるこの曲を一定の水準で聞かせる。とくにグイードを歌うグリヴノフの歌の確実さが際立っている。

『ジャンニ・スキッキ』のタイトルロールを演じたカルロス・アルヴァレスがその歌唱といい、色気のある存在感といい、ひとり抜き出ている。立ち居振る舞いがこのうえなく自然で、ここまでリアルに動けてはじめてこのデフォルメされた舞台装置が生きる。圧倒的に存在するもの云わぬ「物」と、それを前にしたナマの「人間」との対比が出るからである。そのアルヴァレスの「余裕」とも云ってよい舞台におけるありかたが、そのままジャンニ・スキッキという役にリアリティをあたえている。ブオーゾの真似をする声色も、十二分にホールに響き渡っており、かつその使いわけもうまい。さぞや手に入った役かと思いのほか、これでロールデビューというからさすがだ。

ラウレッタの砂川涼子、リヌッチョの村上敏明がさすがの安定した歌唱を聞かせる。とくに砂川は、ラウレッタのなかに本来ありながら見過ごされがちな凛とした強さがあり、その存在感が際立っていた。

まわりを固めるソリストのなかでは、ネッラを歌う針生美智子のひときわ伸びのある美声が印象的。志村文彦の安定した歌唱と存在感も目にとまる。志村のような脇をかためる素晴らしいソリストを擁していることは、新国立劇場の財産であろう。

 

 

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四月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

平成最後の歌舞伎座、夜の部。

 

『実盛物語』は十数年ぶりという仁左衛門の実盛。七十五歳になっての実盛は最年長記録ではないかと自身が語っているが、その颯爽とした明るさは衰えるどころかいっそう増している。きっぱりと派手に身体が動きながら、それでいて役としての性根はぶれることがない。逆に云えば、徹底して気持ち本位で役の内面を満たしながら、けっして型のシャープさを失わない。小万の死を語る「物語」が、これほど目の醒めるような動きの面白さに満ちていながら、どうじに語られる事象への実盛自身の想いをも強く感じさせる両立。太郎吉にたいする地味溢れる接しようにも、舞台にひろがる幕切れの明るさの裏に、彼の母親を手にかけ殺してしまったことへの自責の念があることがよくわかる。

役の気持ちを大事にしながら、それをむき出しにするのではなく、あくまで型のなかに落とし込んで可視化する。現代人にもつうじる人間のドラマを追求する仁左衛門歌舞伎のひとつの完成形を、前月の『盛綱陣屋』につづいて見せられたように思われた。

瀬尾十郎は歌六。ハラを割らない前半はぐっと手強くありながら、どこか品格をたもっているのは、後半への布石か。二度目の出になり、悪態をつきながら小万の死骸に近づくなかに、仮構した悪役としての建前、小万(じつは瀬尾の娘)を足蹴にすることへの苦悩、太郎吉がそれに怒りを覚えて自分に向かってきてくれるかという思惑、それらの入り交じるさまがバランスよく演じられるうまさ。太郎吉に「爺じゃぞよ」と呼びかけるリアルなせつなさ。歌六はこれも初役だそうだが、この役が見たことのないほどよい役になった。

小万を演じる孝太郎。戸板に乗せられて運び込まれてくるのを見ただけで、よい小万だと見るものに思わせるほどのニンのよさ。死んでいたのが切られた腕をとりもどすことによって一時的に息を吹き返す、その変わりようがうまい。

太郎吉は寺島眞秀。前月の『盛綱陣屋』の小三郎役にひきつづき仁左衛門との共演。そのときも行儀のよいきっちりとした舞台を見せたが、今月の太郎吉もセリフよし、芝居よしの名演で、立派に仁左衛門の実盛とわたりあっている。これでまだ六歳だとは。

松之助の九郎助、斎入の小よしの夫婦がしっかりとした芝居で脇をかためて出色。葵御前の米吉も古風な持ち味が鷹揚な役に生かされている。

特筆すべきなのは、これらの役者はもちろんのこと、郎党や漁師、浄瑠璃を語る谷太夫にいたるまで、この『実盛物語』に出るすべての人物のセリフがきわめてはっきりと聞き取れるということだ。時代物の古典歌舞伎などでは、セリフでなにを云っているのかを聞き取ることなどできないと云われることが多い。その認識は観客も、またセリフを発している役者自身もなかば共有しているだろう。しかし、これほどの舞台を見せられると、それは怠慢なのではないかと思ってしまう。明晰に発せられるセリフはすべて聞き取ることができるし、明確にしめされる内容は理解することができる。それだけ、すみずみまでていねいに準備された傑出したひと幕であった。

 

『黒塚』のシテは猿之助。猿之助の緻密な芸は、能から取材されたことさえ忘れるほど細部にわたって作り込まれたこの舞踊劇にふさわしいものだが、今回はいささかそれが薄味。第一景は意図的にぐっとおさえた表現をしているのかもしれないが、なかなかその不気味さは見えてこない。第二景の、猿之助独特の浮き浮きするような怪しさも希薄。そこから正体が知られてからの大音声はあまりに唐突だ。圧倒的に面白かった前回や前々回の上演とくらべて、ものたりなさを感じてしまうのは欲張りだろうか。怪我からの復帰、まだまだ不完全なところは芝居でカヴァーしていけるはず。

全体に芝居のカドがとれてしまっているせいか、照明の変化の不自然さが目立って気になった。

ワキの阿闍梨祐慶は錦之助。格調ある落ち着いた存在感だが、その古典的な佇まいがかえってこの幕になじんでいない。ワキツレは種之助と鷹之資。猿弥のやたらと身体能力に長けた強力。

 

『二人夕霧』は『吉田屋』の後日談的なパロディ。なんとも他愛のない芝居だが、『吉田屋』とおなじセリフやら小道具やらが楽しい。だが、こういった作品が今後どのように受け入れられていくのだろうか。なんらかのタイミングで、台本、演出ともに見直されるべきではあるだろう。

鴈治郎の伊左衛門は紙子姿になってからがぐっとよく、また東蔵のおきさが芝居がしっかりしていて舞台をしめている。さきの夕霧は魁春、後の夕霧は孝太郎。

 

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四月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

                                                                                                                                                                                                                   平成最後となる歌舞伎座は、ベテラン幹部と次世代それぞれの見せ場のある狂言立て。昼の部は出番はわずかではあるが存在感を示す藤十郎、菊五郎、吉右衛門らの芸と、次世代の堅実な実力派による古典。

 

『平成代名残絵巻』は新作の絵巻物ということで、内容は常磐御前と遮那王の再会を軸になんということもなく筋を通したものだが、そんななかでも若手の活躍に目を奪われる。
序幕に登場する平徳子を演じる壱太郎の舞は、もはや完成された余裕すら感じさせる。ただ、舞い終えていったん座りまた建礼門院たちを見送るまで、ずっと扇を開いたまま持っているのには違和感も。
遮那王の児太郎、平知盛の巳之助のふたりがぐっと芸力をあげて楽しみになった。とくに児太郎は真女形の役者としては異例なほど派手に立ち回り、六方などをこなしているが、女形を演じるときよりも本人が楽しそうだ。
「令和の御代も栄え」といった、新元号をさっそく取り入れたセリフもあり。

 

『新版歌祭文』はいつもの「野崎村」の場だけではなく、珍しい「座摩社(ざまやしろ)」の場がその前につく。

「座摩社」の場は、お染と久松が恋慕う仲であることが示され、また下男の小助のたくらみで久松が金をだまし取られてしまうというくだりがえがかれる。これが「野崎村」で久松が養父・久作のもとへ帰ってくるというながれをわかりやすくしていることは事実である。(つぎの「野崎村」でも今回は小助の出る冒頭部分がつく)ただし、大道具が質感に乏しく新作喜劇を見るよう。次の「野崎村」の場とのちぐはぐさを考えると残念。

この場の主役とも云える小助を演じる又五郎は、愛嬌をたっぷりふりまいて好演しているが、上方狂言の典型的な役らしい間とテンポに欠けるのは仕方がないか。門之助の山家屋の若旦那が切ってはめたようにニンぴったり。京蔵の下女おせんのテンポよい芝居が光る。

「野崎村」のお光は時蔵。サバサバとしたなかに見せる独特のリアルさという、このひとの芸風が十二分に発揮され傑作。大根を刻む有名な場面もサラサラとすすめるからこそ、包丁を合わせ鏡のように(また櫛のように)手にした姿を鏡に写した姿が生き、それがのちに髪を切って尼になる運命を予感させるものになっている。訪ねてきたお染との戸口をはさんでのやり取りも、気持ち本位でリアルに演じながら、決して流れないうまさ。髪を落してからは、ぐっと気持ちをおさえてある意味淡々とすすめるが、それがかえってお染久松を見送った幕切れでの後ろ向きでの慟哭につながって、感動的である。

お染は雀右衛門。典型的な振袖役の古風な可愛らしさがあり、時蔵と好対照。黙り悩む久松の周りでの数々のきまりが、人形のそれを思わせる。

久松は錦之助。近頃では無骨な役々もオールマイティにこなすが、やはりこの久松のような前髪の二枚目が本役。しかもお染とのやり取りでは古風に受け、お光とのやり取りではリアルに気持ちを表すところもあり、(奉公先のお嬢様と養家の娘という差はあるから当然だとしても)その違いが出るところが面白い。

久作を初役で演じる歌六がこれまた傑作。良くも悪くも一人娘の幸せを第一に願い、そのために視野が狭くなっている田舎の老人を見事に作り上げている。ところどころ義太夫狂言の枠をこえたリアルさを見せるが、そこに娘への思いがのぞき心をうつ。たとえば幕切れの土手の上で、お光が落とした数珠を拾い上げていねいに埃を払う仕草は、久作という人物のすべてを凝縮していてうまい。

今回は両花道が設けられており、幕切れではお染と久松がそれぞれを駕籠と舟で入る。

お染の母を演じる秀太郎や、前段から引き続きの又五郎も含め、すみずみまで行き届いた見事なアンサンブルによる「野崎村」であった。

 

『鶴亀』は「寿栄藤末廣」と銘打って藤十郎の米寿を祝う。わずかな動きではあるが風格というだけにはとどまらない藤十郎の美しさはさすが。若手女形三人(壱太郎、米吉、児太郎)の芸風の違いがみえて面白い。

 

『鈴ヶ森』では菊五郎の白井権八と吉右衛門の幡随院長兵衛という大顔合わせ。

おおぜいの雲助たちの芝居が良く、この馬鹿馬鹿しい演目が次の時代にもたしかに受け継がれていくのだという安心感をおぼえた。勘蔵、熊六は左團次と楽善という大ベテランの豪華版。この前の『新版歌祭文』では金をだまし取った又五郎が、この演目では金をとられる飛脚を演じるという面白さ。

菊五郎はさすがに歩みは颯爽とはいかないが、形をきめた美しさ、声の伸びやかさが素晴らしく、ぼわっとした芸のやわらかさが第一。吉右衛門もこれでもかという名調子で対抗し、スケールのおおきい長兵衛である。平成最後の十年の歌舞伎を引っ張ってきた両巨頭の豪華競演は、平成ラストとなる歌舞伎座公演にはいかにもふさわしいものであった。

 

 

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三月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

 

『盛綱陣屋』は仁左衛門の盛綱。なんども演じたあたり役である。その芝居のドラマを現代の観客にもわかりやすく、しかしあくまで型のなかに求めるという仁左衛門らしさが生かされた傑出した舞台。

和田兵衛とのやりとりは表面上はぐっとおさえてはいるが、言語明晰ななかにまさに相手のハラを探る緊張感があり、地味なはずのこの場からひとときも目をはなすことができない。和田兵衛が帰り、母・微妙を呼びながら周囲にじっと目を配るそのリアルな様子から、うってかわって孫に自害を勧めてくれという母への理不尽な頼みの派手なうごき。盛綱の内面のありようが、はじめの出からここまで途切れることなく手に取るように見えるのがさすがである。

三度目の出になり首実検になる。弟・高綱の偽首と気がついて「弟め、やりおったな」との笑いは従来よりは控えめ。ハラで芝居をするということもあるだろうが、その場にいる北条時政はじめとした鎌倉方の武将たちにさとられてはならないという仁左衛門一流のリアルさがそこにはある。それではなぜ甥は偽首と知りながら自害したのかと不審に手負いの小四郎を振り向き、さてはこれも計略かと向こうを見込んで気がつくまで。けっして派手ではないが、それでも盛綱の内面を観るものは息を呑んでともに追うことができる。歌舞伎のなかでも屈指の「ハラ芸」を見せる場面だが、きわめてていねいに運ばれる仁左衛門の身体の動きによってすべてが連続し可視化されている。

この仁左衛門の見事に作りこまれた盛綱で一ヶ所だけ違和感があるのは、まさにいま絶命せんとする小四郎がまわりにいる大人たちに呼びかける場面。「伯父さま」と呼ぶ声に盛綱は扇でみずからの膝を「ポン、ポン」と叩いてこたえるが、ぐっと感情を押し殺すもののふらしさを見せるはずのそれが、いまにも駆け寄って甥の手をとるかに見える仁左衛門の「優しい伯父さま」的な芝居とはちぐはぐに見える。

微妙は秀太郎。孫の小四郎にむかって自害をうながすといういうこの現代では理解しにくい理不尽な要求を、目の前の小四郎はもちろんのこと、観客にも道理を通じさせるその説得力はさすが。なによりもそれを口にしている微妙自身が、みずからを納得させられなければとてもいられないという痛切な想いがあるからだろう。時代物の大役らしくきめるところはきめ、情けを見せるところは見せ、前回よりもはるかに役としての深みがあり感動的。雀右衛門の篝火、孝太郎の早瀬とともに、女形三人がきわめて高い水準でそろっていて見事なアンサンブルである。

和田兵衛は左團次。ここのところ故・團十郎、吉右衛門、白鸚といった大看板が和田兵衛を演じて盛綱と渡り合う名演を見せていたが、やはり線の太い力強さという意味では左團次には無類の安定感がある。注進は錦之助と猿弥という豪華版。北条時政は歌六が不気味な古怪さを出して好演。子役は小四郎は中村勘太郎がていねいに演じて泣かせる。小三郎は寺嶋眞秀。

 

『雷船頭』は未見。

 

『白波五人男』は幸四郎と猿之助が日替わりで弁天小僧を演じるという面白い趣向で、この日の弁天は猿之助。南郷力丸を演じるのは幸四郎。

「浜松屋」の場は、スキのない型が確立されている演目において、ことごとくツボをはずすとこうなるのかという典型。細部にこだわるあまりテンポが悪くなりピントがぼやけた弁天。陰気で内にこもった駄右衛門。番頭以下手代たちのテレビの時代劇を見ているようなセリフ。正体をあらわしてのちの幸四郎の南郷に、かろうじて黙阿弥らしきリズムの残滓が残っている。立体的に組み上げられた芝居のリズムがあとかたなくくずれ、いたるところにすきま風が吹いている。

あたらしいやり方が悪いとは思わないが、それが戯曲に沿ったリズムと流れをいままでと違ったかたちで生むものでなければならない。せっかくの日替わりキャストの試みが、たんなる試みで終わってしまっては残念だ。

「稲瀬川」の名乗りの場になって、白鸚の駄右衛門と鶴亀の忠信利平が本格なセリフを聞かせ、なんとか締めくくった。

 

 

 

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