黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

八月納涼歌舞伎『花魁草』『心中月夜星野屋』

三部制の八月歌舞伎座。まずは第一部を観る。

 

『花魁草』は昭和56年に七世梅幸にあてて北条秀司が書き下ろした新歌舞伎。新派でも一度取り上げられたのち歌舞伎としては7年前に新橋演舞場で久しぶりに再演され、今月が再々演である。

江戸をおそった地震と火事のなかで偶然に出会った大部屋役者と女郎。その後二人は田舎でひっそりと暮らしていたが、男の出世のために女が身を引くという、典型的な新歌舞伎の人情物。母親も自分もともに嫉妬から人を殺めた経験をもつという女が、惚れた男が人気商売に復帰することでまたその「呪われた血」がよみがえるのではないかと恐れて身を引くところが、類型からはずれている。そこをどう見せるか。

お蝶を演じる扇雀は、序幕は特にさしたることもないが、栃木宿での慣れぬ家事にとまどいながら暮らしている様子にリアリティがあって上手い。米之助への過去語りは、母親から受け継いだ人殺しの血に対しての恐れは意外なほど希薄だが、逆にそのことで独特の人物像をえがくことに成功している。年頃の女から好意を持たれる幸太郎を見て湧きあがる嫉妬。「甥とおば」と偽ることのできるほどの幸太郎との年齢差からくる不安。だからこそ幸せになるために一歩踏み込んでいけない臆病な自分がいる。母親譲りの「呪われた血」はここではエクスキューズに過ぎない。それどころか自身の過去の殺人はそもそもそのためにお蝶の作り出したフィクションかもしれないのだ。米之助に思わず「かわいい人だなぁ」と云わせる、自分を信じられない一人の弱い女がそこにはいる。大詰で橋の上から出世した幸太郎の後ろ姿を見送る姿は、自ら幸せを手放してしまった自分へのあまりに切ない自己肯定である。それは作者の書いたオリジナルなお蝶ではないかもしれないが、もっと整理すれば現代に通じる新しい可能性があるように感じさせた。

幸太郎の獅童、米之助の幸四郎は昭和のにおいのするこの作品を現代的なテンポ感で運んでいくが、ニンが合っていないこともあり上滑りしている。

脇では梅枝のお松がうまく、また短い出番ながら市蔵の達磨屋がさすがの存在感。

 

二つの新歌舞伎のあいだに舞踊『龍虎』。

 

後半は『心中月夜星野屋』の新作初演。落語の『星野屋』をもとに、一時間もない気楽に観られるコメディに仕上げている。

世話になっている星野屋照蔵から心中してくれと頼まれたおたかが、母親のお熊の入れ知恵でなんとか自分だけ助かろうと画策する。互いに騙り騙られ、最後には観客もだまされて幕となる、よくまとめられた小佐田定雄の台本。

これでもかというくらい歌舞伎のお約束のセリフや型を入れ込んでのパロディは、歌舞伎好きなら腹をかかえて笑ってしまいそうなのだが、ひとつの独立した芝居として観たときにそれらがきちんと成立しているのかと云えば疑問だ。内輪のファンのための限定版の「お楽しみ」としてはこれでも良いが、落語由来の歌舞伎作品として先行する『文七元結』や『らくだ』のようにレパートリーとして再演されるためには、さらなる演出の整理が必要かと思われた。

その中にあって、おたか演じる七之助はこのようなパロディにおいても実に丁寧で上手い。芝居好きな照蔵の歌舞伎かぶれの真似事を市川中車が演じるというある意味ブラックな配役。

 

 

 

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サマータイムとは誰の「時間」なのか

 

「自民党は2020年東京五輪・パラリンピックの猛暑対策として、時計の針を早めるサマータイム(夏時間)導入の検討に入る。安倍晋三首相(党総裁)の指示を受けたもので、早ければ秋に予定される臨時国会に関連法案を提出し、19年の試験実施を目指す。ただ、政府には慎重論が強く、政府・与党内の調整は難航しそうだ」

(時事通信2018年8月7日)

 

日本でも終戦直後にGHQの指導のもと数年間だけサマータイムが実施されたことがあった。当時のことを調べてみると経験者の多くがデメリットを感じていたようで、その後は話題になることはあっても盛り上がることはなかった。これまで70年のあいだわたしたちはサマータイムという制度そのものを、とくに必要としてこなかったと云える。

 

そもそもサマータイムを導入しているのは日本より高緯度の国・地域がほとんどである。これらの国々は夏になると日照時間が長く、その明るい時間を有効に使うことを目的に早くから取り入れられてきた。簡単に云えば「冬のあいだは陽にあたることが出来なかったが、夏になって早くから太陽が出るようになったから早起きして昼間を有効に使おう」ということである。それと同じ条件がいまわたしたちの住む国にあるのかと冷静に考えればそんなことは決してない。わたしたちの目の前の問題は、日照時間を有効に活用しようということより、むしろ日照やそれにともなう暑さを回避したいという真反対のことなのだ。暑さ対策としてサマータイムを実施しても、午前中のまだ暑さも厳しくないうちに仕事を済ませることはできるかもしれないが、そのあとの余暇時間はどうなるのだろう。また、ただでさえ暑さで体調を狂わされている身体は日の入りが相対的に遅くなることでますます寝不足になりはしないか。サマータイムは暑さ対策とはもともとなじまない制度なのである。

そもそも今回のサマータイム導入問題は、今年(2018年)の猛暑が想像をこえるものであったため、2年後のオリンピック対策として組織委員会会長の森喜朗が「サマータイム導入の検討を」と政府に要請があったことがきっかけであった。午前7時にスタートするマラソンもサマータイムで2時間時計を早めることで実質5時スタートになり、午前中のうちに競技が終われば選手も観客も涼しい環境で過ごせる、という論理だそうだ。しかしそれは競技の開始時間を早めれば済むことだろうし、公共交通機関もそれに合わせて臨時ダイヤで対応すればいかようにでも解決策はあるはずだ。またサマータイムにより夕方の競技が実質2時間繰り上がり炎天下で実施する羽目になることは云うまでもないが、それはどうでもよいのだろうか。また、オリンピックにあわせて新宿駅や渋谷駅をはじめラッシュ時の交通網の大混乱が予想されているが、競技の時間を早めるだけでなく社会のリズムそのものをずらしてしまうサマータイムでは、その問題はまったく解決されることはない。

 

このように思いつくだけでもデメリットだらけの日本にはそぐわないサマータイムだが、今回の政府の動きが問題なのは、「オリンピックのために」という大義名分によって社会のものさしそのものが恣意的に変更されるということそのものにある。

「巨人・大鵬・目玉焼き」と云われたような、大衆がある程度の価値観を共有していることが前提であった時代と違い、これだけ関心が多様化した現代の日本においては、オリンピックは決して大多数の国民のマストなイベントではありえないことは明らかだ。それにもかかわらず、すべての日本国民がオリンピックを楽しみにし、そのためならば学業や仕事を犠牲にすることも厭わないと思っている「かのように」ストーリーが誰かの手によって作られていく。(実際に、オリンピック期間中は大学を休みにし学生はボランティアに従事するべきだとの信じがたい方針が政府からすでに示された)そのストーリーにのれない多くの脱落者の生活を支えている時間は、涼しいうちにマラソンを終わらせるための時間とくらべれば取るに足らないものだと云うわけだ。

これはオリンピックだけの話ではない。存在するかどうかもわからない「民意」にあわせて、わたしたちがそれぞれ持っている時間や空間は歪められていく。それはときには期間限定のサマータイムなどではすまないような、不可逆なものかもしれない。その可能性を誰も否定できないのである。

 

毎年8月6日には広島で平和記念式典が執り行われる。原爆が投下された午前8時15分には平和の鐘が鳴らされ内閣総理大臣をはじめ数多くの参列者が黙祷を捧げる。サマータイムが導入された年、その鐘はいったい何時に鳴らされるのだろう。その鐘に合わせて黙祷を捧げる想いは、誰と共有されるのだろう。時間に結び付けられたはずの記憶が、引き剥がされることになりはしないか。

人間が人間であるのは、記憶という「ものがたり」を継承する生き物だからである。その記憶の運び屋である人間にとって、それぞれが持っている時間は決して誰かに踏みにじられて良いものではない。「あなたの時間」は、「あなたのもの」なのだ。

 

 

 

アンドロイドオペラ ”Scary Beauty"(日本科学未来館)

 

2018年7月22日 (日)20:30
日本科学未来館1Fシンボルゾーン

【出演】
コンセプト、作曲、ディレクション、ピアノ:渋谷慶一郎
ヴォーカル、指揮:オルタ2
演奏:国立音楽大学学生・卒業生有志オーケストラ

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ロボット学者石黒浩の作ったアンドロイド「オルタ2」に、人工生命の専門家池上高志の自律的運動プログラムが搭載され、渋谷慶一郎の作曲したオーケストラ音楽を指揮し、自ら歌うという、話題のコンサート。

演奏される曲は、フランスの小説家ミシェル・ウェルベックや三島由紀夫のテキスト、またウィリアム・バローズや哲学者ヴィトゲンシュタインの遺作などをモチーフとし、AIが独自のアルゴリズムにもとづいて自動作曲したものを、渋谷が修正を加えて仕上げたもの。しかしこのコンサートの最大のポイントは曲そのものというより、アンドロイドにどこまで指揮ができるのか、アンドロイドが指揮をしたとき演奏はどのように私たちの想像をこえた新しいものになるのか、ということにつきる。

 

若いオーケストラを前に、オルタ2の両腕は禍々しい軌道をえがき、ときには穏やかに、ときには激しく揺れ動く。暴力的で混沌とした1曲目が終わった時点ではまだ明らかな戸惑いを見せていた観客も、明快なテンポとリズムをもつ2曲目、3曲目と演奏が続くにしたがって異様な空間に引き込まれ、最後は大きな拍手をオルタ2とオーケストラに送る。60分足らずの短いコンサートであった。

 

このきわめて異様なコンサートにおいて、考えなければならない二つの問いがある。

 

まず第一に「オルタ2は指揮をしていたのか」という根本的な問題だ。これは「指揮者はオーケストラの前で何をしているのか」という、より一般的な話と無関係ではない。

指揮者は曲のテンポやニュアンス、構成というものについて、その曲全体あるいは開始部分について明確なイメージをもって指揮をし始める。そして、演奏し始めるタイミングをそろえ、共有すべきテンポを呈示し、微妙な流れの変化にそのつど方向性を与え続けながら音楽と「並走」する。そのためには手の動きだけではなく身体の全体を通して、ブレスつまり息の流れを視覚化してそれを演奏者に伝えることが必要だ。(この点については当プロジェクトでも重要なポイントとして考えられていて、腰骨にあたる部分や肩関節などを含め、総合的な動作でオルタ2が指揮をするように考えられており、それがあの異様な動きにつながっている)

結論からさきに云えば、オルタ2はこれら指揮者の仕事を果たしてはいない。

まず、曲をスタートさせていたのは自発的なオルタ2の動きではなく、オルタ2の横でピアノを弾いていた渋谷の合図(なぜか彼が普通に指揮をしている)や、オーケストラの奏者どうしの息合わせやカウントだ。曲が始まるときにかぎってオルタ2に当たっていたはずの照明が消え、演奏開始後にそっとフェイドインする演出は、神秘的な効果を聴衆に与えたかもしれないが、むしろオルタ2が「演奏をスタートさせていない」ことを見せないために重要な役割を果たしていた。演奏者によってはじめられた音楽に合わせて、オルタ2が指揮をしている「かのように」動き出すさまは現代舞踊のようであった。

次に、流れている演奏にたいしてオルタ2が指揮者としてなんらかの変化を与えられていたかということについても、残念ながらそのような瞬間は存在しなかったと云えるだろう。ある程度優秀なオーケストラであれば、比較的テンポが安定している曲や、パターンがわかりやすい曲であれば指揮者なしでも問題なく「整った」演奏をすることは容易だが、そのようなとき(また、いないほうがマシなくらい下手な指揮者のもとで指揮を無視して演奏せざるを得ないとき)にしばしば行われるような自主的なアンサンブルが今回のオーケストラにあったことは、プロの演奏家であれば容易にわかるはずである。また、指揮者は演奏に対して能動的に関わる存在であることは確かだが、同時に自分の指揮のもとでプレイヤーが奏でている音楽を受動的に聴き、そこからまた影響を受ける存在でもある。そのある意味対等な関係も、この夜の演奏からは感じることは出来なかった。テンポの変化、曲想の変化、フレーズのリスタートにあたって、それとは全く無関係に動くオルタ2の「指揮」は、文字通り空を切る。

 

だが、不思議なことにその残念な結果に聴衆は熱い拍手を送った。Twitterやブログは「大成功」した「歴史的な瞬間」にたいする絶賛に埋め尽くされていた。オルタ2はこの夜「指揮をしていなかった」のにもかかわらず。そこにはないはずのものが、なぜあることになってしまったのか。それがより重要な第二の問いである。

コンセプトを「見せる」ための演出はひじょうによく考えられていた。さきに述べた照明だけでなく、いっけん失敗かと思わせる混沌とした曲をはじめに演奏し、そのあとでリズムのわかりやすい曲でクリアな演奏を聴かせるという構成もなるほどと思わせた。作曲に用いられたいくつもの「遺作」たるテクストのイメージも大きかった。なにより、不気味なまでに人間に近づけられた顔と手を持ちながらあえて無機的な体幹を露出させたオルタ2の「境界にあるもの」としての姿そのものが、あるはずのないものを召喚する媒介としてきわめて優秀な役を演じていた。しかし、それらの演出以上に重要だったのは、公演のウェブサイトやパンフレットに渋谷慶一郎が書いたコンセプトそのものだった。

そのなかには、このコンサートで目指したこと、オーケストラとの練習の中で見出されたこと、そして最終的にその共同作業がどのような演奏に結実したのか、その「物語」が記されている。その「物語」を聴衆は信じたのだ。「このコンサートではAということが行われる」という看板を読み、聴衆は「このコンサートではAが行われていた」と感じる。しかしそれが本当にそうなのかどうか、専門家でなければ検証することは出来ない。それは圧倒的に情報を持っている送り手と確かめる手立てを持たない受け手との、きわめて不平等な関係であり、それこそがあるはずのないものをある「かのように」見せた劇場のプロセニアムなのではないだろうか。それは同時にきわめて「宗教」的な問題である。

 

人工知能(AI)がどこまで人間の仕事や活動に替わるものになっていくのか、様々に論じられるようになって久しい。AIがなにかをするといっても、そのためのプログラムをメタレヴェルで人間が規定している以上、さかのぼって行けば厳密な意味でAIだけで人間を超えていくことは容易ではない。だからこそ、知的な冒険としてAIのもつ可能性を追求する旅は続けられるだろうし、その過程でわたしたちが得ることも少なくないはずだ。

だとするならば、なおさらその旅の行く先を真摯に見たい。アンドロイドが本当の意味で指揮をする姿を見てみたい。そのことで指揮者が果たしている役割がより明らかになるかもしれない。また、アンドロイドが人間になりかわることの「意味」がもしあるとすれば、それをわたしたちに教えてくれるかもしれない。

 

 

 

七月大歌舞伎夜の部『源氏物語』(歌舞伎座)

 

市川海老蔵を中心とした座組が定着するようになった7月の歌舞伎座だが、長らくそこを指定席としていた三代目市川猿之助(現・猿翁)時代の伝統を引き継ぐかのように、海老蔵もまた創意ある演出による復活狂言や、エンターテインメント性の強い舞台を上演し続けている。

『源氏物語』は祖父十一代目團十郎、父十二代目團十郎も、それぞれの時代にふさわしい台本と演出を得て上演した、いわば市川家の家の芸といった感がある。海老蔵もまだ新之助を名乗っていた2001年の5月に瀬戸内寂聴版『源氏物語』として初演したのをはじめとして、これまでに様々なヴァージョンを上演してきた。

今回はこの数年海老蔵が実験的に行ってきた能楽師やバロック音楽の声楽家との共演などの要素も盛り込んで、まったく新しいヴァージョンを満を持して歌舞伎座にかけた。台本は今井豊茂、演出・振付は藤間勘十郎。これが実りある歴史的な舞台となった。

 

演出の面では藤間勘十郎のきわめて優れたセンスが細部に至るまで行き届いており、道具、照明(プロジェクションマッピングを含め)、衣装などすきのない統一感がある。また全体の構成も、原作からどの場面を選択するかという潔さ、それをイメージでつないでいく手際のシンプルさ、という点において秀逸だ。

舞台があくと、花道での紫式部(市村萬次郎)のひとりがたりに続いて、闇の精霊(アンソニー・ロス・コスタンツィオ)のカウンターテナーによる歌唱がはじまる。闇の精霊に対するものとして光の精霊(ザッカリー・ワイルダー)のテノールがいるのだが、このハイレヴェルな二人の声楽家の歌唱が重要な二つの効果を与えている。まず一つは、この舞台が光源氏の「光」の側面と「闇」の側面との葛藤を描いているという枠組みが明確に示されること。もう一つは、そのあまりに自然に舞台に溶け込んでいる声楽家の歌を聴いているだけで、「これは歌舞伎ではない」という意識を観るものに自ずといだかせること。特にこの後者の効果は大きく、本来ならば霊など異界のものしか使わないはずの「すっぽん」からいろいろな人物が出入りしても違和感を感じなくなる。二人の歌のおかげで、歌舞伎における「お約束事」という縛りがいとも容易に解除されているからである。これは二人の歌唱力ももちろんだが、指揮者として(おそらく音楽監督的な立場としても)関わっている弥勒忠史の力が大きいと思われた。

片山九郎右衛門、梅若紀彰、観世喜正といった三人の実力者を揃えた能楽陣もこれまた見事に舞台にはまっている。特にこの日に桐壺帝をつとめた川口晃平はそのたたずまい、鳴り響く美声によって圧倒的な存在感である。

プロジェクションマッピングによって彩られた歌舞伎座の空間に、これら他ジャンルの要素がなんの違和感もなく溶け合って、歌舞伎でも能でもオペラでもない、一つの幻想的な演劇的シーンを作り出しているという意味でまずは大成功である。いま芸も充実している海老蔵でしかなし得なかった成果だろう。

 

いくつか問題点もあった。

まず、構成・演出の匠さに引き換えて、地の部分つまり科白(セリフ)のシーンがことごとく低調なこと。単調な科白のやりとりに終始し奥行きが感じられない。これは台本に起因する問題で、ここまであまりに表面的でなんの含意もない科白では、科白の裏にハラを効かせる歌舞伎役者本来の芸はまったく生かされない。科白の場面で唯一引き込まれたのは、雀右衛門演じた六条御息所が葵の上の懐妊を聞いて思い入れをするところだが、皮肉なことにそのとき六条御息所に科白はない。

弥勒忠史ひきいるバロックアンサンブルが高い成果をあげていることはすでに述べた。王朝物とも云うべき平安時代の雅な世界と、西洋の宮廷文化を思わせるクラシック「以前」の音楽は驚くほどマッチしている。しかしそれだからこそ、いくたびか挿入される長唄や三味線の音楽に残念なほど違和感を感じた。ふだんわたしたちが『菅原伝授手習鑑』のような平安時代の王朝物を観ているときには感じないのにもかかわらずである。『菅原』などでは衣装や様式なども平安時代のそれと江戸時代のそれが(冷静に考えれば奇妙なほど)混在しているため、音楽だけが浮くことはない。しかしここまで歌舞伎のお約束事を排し統一された舞台では、かえって「歌舞伎的なもの」が押し出されてしまう。長唄三味線が江戸以降の「ある時代」の匂いをこれほどまでにまとい、それが「歌舞伎的なもの」を形づくっているのだということを、あらためて思い知らされる結果となった。(歌舞伎的にはお約束の大団円のフィナーレがいささか蛇足に感じられるのも同じ理由である)

 

今回の舞台でもっとも興味深かったのは、序幕のキリである。六条御息所の生霊が葵の上を呪い殺しにやってくる原作でも有名な場面。雀右衛門の御息所とともに観世喜正の「前シテ」、片山九郎右衛門の「後シテ」が三者そろって葵の上に襲いかかるという面白いアイディアだが、雀右衛門にくらべて二人の能楽陣がいささか表面的にうつる。なぜだろうか。ここに能と歌舞伎それぞれの根本的な表現方法の違いがある。

能でシテが演じているとき、わたしたちはもちろんその目の前のシテを見ている。しかし、そのシテの身体そのものを演じている人物(たとえば六条御息所)と思って見ているわけではない。わたしたちはシテの身体を通して、その向こう側に決して目には見えない人物を見ているのである。その想像力が「あちらの世界」とつながるところに能の表現が成り立っている。これに対して歌舞伎の場合は、その人物を演じている役者の身体そのものをわたしたちは見ている。もちろんその背後に様々に付随するイメージを見ることがあっても、基本的には「演じている役者=演じられている役」なのだ。(そして市川海老蔵という役者は自分そのものを見せるということにおいてこんにち比類なき才能の持ち主である)

問題のシーンで、雀右衛門は歌舞伎役者として御息所を演じている。その後について登場する二人の能楽師はそれぞれ御息所の内なる魂の象徴(生霊)になる。(もともと御息所は自分の生霊が葵の上を襲っていることにはその時点で無自覚なはずだが、これでは意思を持って自分の生霊をあやつって襲わせているように見えるのではないか、という問題点はまた別の話)その段階で二人の能楽師は、目には見えない人物を見せるための媒介であることをやめて、観客が想像するはずであった見えない人物そのものを演じることになってしまう。そのため二人の能楽師はその向こうになにも示すことが出来ない、空っぽな存在として舞わざるを得ない。面白いアイディアであったはずのこの二重(三重)構造が、かえって能楽が本来持っている想像力による奥行きを失わせる結果になった。この興味深い事象はまたあらためて考えてみたい。

 

文楽の大夫が歌舞伎座で生身の役者と共演しただけで「事件」になった時代があった。それもいまでは珍しくないまでにはなったが、能楽の世界などはいまでも様々なしきたりがあり、自由な表現やコラボレーションを難しくしているようだ。伝統芸能各分野の当主クラスのメンバーがここまでタブーを破ってともに作り上げたプロジェクト。もちろんその舞台そのものも高い水準をクリアした素晴らしいものだったが、それ以上にここまでの共演が実現したという事実そのものが前例となって、これから多くの試みを可能にさせるという大きな価値がある。はじめに歴史的な舞台となったと書いたのは、そういう意味である。

 

 

 

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東京二期会『魔弾の射手』(東京文化会館)

 ウェーバー作曲

『魔弾の射手』(前三幕)

 

【指揮】アレホ・ペレス

【演出】ペーター・コンヴィチュニー

【出演】藪内俊弥、伊藤 純、北村さおり、熊田アルベルト彩乃、加藤宏隆、小貫岩夫、小鉄和広、杉浦隆大、大和悠河

【合唱】二期会合唱団

【管弦楽】読売日本交響楽団

 

千秋楽の7月22日(日)を観る。

 

ドイツロマン派初期を代表するこのオペラは、いまとなってはいささか時代遅れとも思わせるその音楽や物語ゆえか、ヨーロッパにおいても斬新な読み替え演出によって上演されることが多い。今回の二期会も、世界中で物議を醸す演出家ペーター・コンヴィチュニーを迎えての公演である。

 

コンヴィチュニーの演出は取り立てて斬新な部分はなく、むしろ全体的に今日ではオーソドックス(もとは20年も昔のプロダクションだけあって既視感のある)とも云えるテイストでまとめている。その中でもコンヴィチュニーらしい大きな特徴が2点ある。

まず、オリジナルではあまり舞台に登場するシーンのない悪魔ザミエルを頻繁に(しかもファッションショーのように毎回衣装を替えて)登場させ、本来は目に見えない「あちら側」の住人である悪魔を可視化したこと。ザミエルを演じたのは元宝塚スターの大和悠河。客席からは彼女のファンと思われる一群から登場のたびに惜しみない拍手が送られているが、埋めようのないテイストの違いが、本来は不気味で霊(ガイスト)的な「あちら側」の世界である魔の世界や死といったものをいささか陳腐なものに見せている。

もうひとつは、「隠者」のあつかいである。この作品はもととなった原作の段階ではアガーテは魔弾に当たって命を落とす設定であったが、それをオペラ化にあわせて白バラの冠の力で一命をとりとめることに書き換えられた。そこからの一連のなんともご都合主義な結末がこのオペラの情けない部分なのだが、このエウリピデスも真っ青の"deus ex machina"(機械じかけの神)をどう説得性を持たせるかは演出家の腕の見せ所とも云える。コンヴィチュニーは「隠者」を観客席の一列目に座らせ、幕が一旦しまった舞台に乱入する観客代表になぞらえる。この金持ち然とした「観客」が、マックスも赦してやり、一年の猶予期間の後にアガーテと結ばせてはどうかという歌を歌う。神様であるお客様のご意向で無理やりハッピーエンドにするというのはアイディアとしては面白いが、たんに金も出すが口も出すスポンサーを拝んでいるようで(そういう意図なのかもしれないが)これまた陳腐である。

 

演出上の問題点ではあるのだが、演出家の責任の範囲ではない最重要な問題点について。

『魔弾の射手』は、オーケストラ伴奏のつく歌の部分と純粋なセリフの部分をもつ、いわゆるセリフ付きオペラである。(大変残念なことに)日本でのセリフ付きオペラでは少なくない上演形態の悪しき例に漏れず、歌は原語のドイツ語で歌われ、セリフは訳された日本語だ。この段階で、この公演は演劇でもなく、オペラでもなく、ただの奇妙な発表会である。なかでも、ドイツ語で歌うカスパールと日本語で話すザミエルの対話はなんのコントがはじまったのかという噴飯ものだ。そして全編通してオペラ歌手の日本語のセリフのレヴェルは学芸会レヴェルである。

 

音楽面では、指揮者のペレスがウェーバーらしい引き締まりながらも重さのあるサウンドをオーケストラから引き出していたことと、オーケストラピット内のチェロのソロが素晴らしかったこと以外は、特筆すべき成果はなかった。

 

 

 

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