黒井緑朗のひとりがたり

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川島素晴 plays... vol.2 “無音” (旧東京音楽学校奏楽堂)

 

梅雨も明けた真夏日、緑にかこまれた上野の旧奏楽堂。作曲家・川島素晴プロデュースのいっぷうかわったコンサートが開催された。ジョン・ケージの代名詞ともなった(それはそれで本人は不本意だっただろうが)名曲「4'33"」をはじめとして、川島自身の新作もふくめ「無音」を聴くことにこだわった曲をあつめた意欲的なプログラムである。

コロナウィルスの影響で、世界中のホールや劇場から音楽や演劇といったパフォーミングアートが姿を消してから数カ月。すこしづつそれらは活動を再開しつつあるとはいえ、まだまだその機会はおおくない。ホールで音楽を聴くということの意味を、もういちど考えさせる素晴らしい企画であった。

 

開演時間である16時4分33秒にさきだつこと4分33秒。プロジェクターが映像を壁に映しだす。カメラにむかってかかげられたストップウォッチが、開演に向かってクロースアップ(実際にはストップウォッチを手にした川島がカメラに近づく)されていく。

一曲目はアルフォンス・アレーの「偉大な聴覚障害者の葬儀のための葬送行進曲」(1884)。小節線のみが記された白紙の楽譜からなるこの曲を、指揮をする川島は四拍子で振っていく。7名の演奏者は弾く素振りは見せるがいっさい音は出さない。かなりフレージングもはっきりしたなかなか熱い演奏だが、「演奏者は拍を数えることのみに専念」という作曲者のコメントからは異色の演奏か。

2曲目はエルヴィン・シュールホフの『5つのピトレスク』より第3曲「未来にて」(1919)。無数のこまかくならべられた休符を川島がピアノに向かい「弾いて」いく。

イヴ・クライン作曲の交響曲「単音−沈黙」(1949)は、20分にわたってひたすら同一音のロングトーンが演奏され、そのあとにやはり20分間の「無音」がつづくという作品。読経と座禅のようなある意味で演奏者にも指揮者にもハードな時間だが、音を聴きつづけたことで、そのあとの静寂もまた「聴かれるべきもの」に変質しているように感じられるのが面白い。

 

前半の最後にピアノで演奏されたケージの「4'33"」(1952)は前代未聞のじつにショッキングな演奏だった。もっとも一般的な演奏は、ピアニストがビアノの前に座り、ピアノの鍵盤の蓋をあえて開け演奏を開始するというものだが、なんと川島は椅子に座り第一楽章がはじまるやいなや開いていた鍵盤の蓋を閉めてしまう。第二楽章になると、こんどは立てられていた譜面台が静かに倒される。第三楽章になり、ピアノの響板も閉じられる。つまり、「無音の曲を弾く」パフォーマンスをするのではなく、「能動的に演奏しない」のだ。だれもが「無音」を「演奏しようとする」この名曲を、「演奏しない」という衝撃的な光景。そしてその演奏を拒んだ川島の身体と閉じられたピアノを見て、沈黙のなかに言葉にならないふかい感動がもたらされ、おもわず涙がこぼれた。

 

休憩時間はサティの「家具の音楽」がその意図を最大限に活かしながら鳴りつづけていた。

 

休憩がいつ終わったかも曖昧にされるなか、演奏者である川島が舞台からじっと客席を見ている。ラ・モンテ・ヤング作曲の「Composition」(1960)の6曲目で「舞台から客席を(客席から舞台を観るように)観る」という作品。「見る」ということはこの空間と時間のなかで「聴く」ということでもある。観客/聴衆でもあるわたしたちは、このときこの作品を「見るもの/聴くもの」であるとどうじに「見られるもの/聴かれるもの」になっている。きわめて厳密な意味での双方向的作品といえる。映像配信ばかりの今年の音楽シーンのなか、わたしたちがホールに足をはこんでその場にいるということの意味を突きつけられた気がした。川島はコミカルに演奏して(演じて)いるが、そういう意味ではシリアスに淡々とした演奏でも聴いて(観て)みたい。

 

ピアノのオルガントーンが鳴り響くリゲティ作曲の「デイヴィッド・テューダーのための3つのバガテル」(1961)は聴衆にある種の「耳」を要求する作品。

つづくケージの「Song Books」(1970)は、いまとなってはやや面白味に欠けるようにも思えた。

杉山隼一の「視覚音楽 I」(2015)は「4分33秒間この五線紙を見続けなさい」とだけ楽譜に書かれた作品。ケージ作品へのオマージュでもあり、川島のブログによればすでに破棄された「もはや存在しない作品」だとのことで、まさに「無音」のコンサートにふさわしい一作と言える。

舞台初演となる松平敬の「心の中で歌う」(2020)は、学校の音楽の時間において「今は歌は心のなかで歌いましょう」などというファンシーな教育が行われていることへの、このうえなくシンプルな皮肉。

 

ささきしおり作曲の「ユビキタス“S”」(2020 / 委嘱新作初演)は、前半のケージの「4'33"」の川島の演奏とならんで、たいへんこころを動かされた作品。

スクリーンに映し出されるのは森のなかにおかれた白紙のスケッチブック。自然の環境音のなか、川島がそこに青いペンで無数の曲線を延々と描いていく。なるほどそういう映像作品かと思いのほか、やや遅れてこんどは袖に控えていた川島があらわれ、舞台のうえにおなじようにおかれた白紙のスケッチブックに、やはり線描をはじめる。だが先行する映像とはことなり、舞台上の川島のペンは空を切るばかりで「なにひとつ描かない」のだ。

映像のなかのどんどん書き込まれていくドローイングと、なにも描かれない舞台上のスケッチブックのあいだに一瞬にしてうまれた、ふたつの世界の重なり。そこにあるのは「書かれるべきもの」と「書かれなかったもの」であり、「聴かれるべきもの」と「聴かれなかったもの」だ。それは、この数カ月のあいだに数えきれないほど存在した「聴かれるべきだったコンサート」と「聴かれなかったコンサート」でもあるだろう。

 

最後を締めくくるのが川島素晴自身の新作である「Exhibition 2020」の初演。川島をふくめた8名がそれぞれの楽器を持ちながら、10のキーワードをその身体で表現していくユーモアあふれる作品だ。ゆったりとした動きから、突如のストップモーションが切り取る静止画的な面白さ。その「静/動」がもたらすエネルギーの流れに、なるほどこれも音楽かと納得させられる。なかでも、3列にわかれて楽器をかまえただけで「完全5度」をみごとに表現したのには、おもわず(まわりが誰も笑わないから我慢したが)爆笑しかけてしまった。

 

いま聴くべき音楽を「聴く」ことができた充実した120分。大満足で奏楽堂をあとにした。

 


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新国立劇場『フィレンツェの悲劇/ジャンニ・スキッキ』(新国立劇場オペラパレス)

 

ふたつのオペラを組み合わせた、いわゆる「ダブルビル」シリーズの第一弾として、ツェムリンスキー作曲『フィレンツェの悲劇』とプッチーニ作曲『ジャンニ・スキッキ』が取り上げられた。演出は粟国淳、指揮は沼尻竜典。

 

二十世紀初頭のほぼ同時期に作曲されたこのふたつのオペラは、フィレンツェを作品の舞台としているという共通点を持つ。フィレンツェはいまでこそレトロな街並みが楽しめる観光地であるが、これらのオペラの舞台として想定されている中世末期の共和制のはじまりからルネサンス期にかけて、かの街はヨーロッパ屈指の商業都市であった。その発展をささえたのは金融業と毛織物工業であるが、それはまさに、お金とファッションという実態のない人間の欲望の象徴でもある。『フィレンツェの悲劇』と『ジャンニ・スキッキ』を並べたとき、モチーフとしてそのふたつを容易に頭に浮かべることができる。

 

粟国の演出は理詰めというよりもきわめて感覚的なもの。どちらのオペラも、イタリア的な色彩を感じさせる、かなりデフォルメされた美しい舞台装置(横田あつみ)のなかで演じられる。

『フィレンツェの悲劇』では崩壊しふたつに割れた建物(破綻した夫婦関係を連想させる)が中央にそびえ、そこから巨大な布のようなメタリックなオブジェが冷め固まった欲望のごとく流れ出ている。無数の糸を紡ぐ糸車が象徴的に舞台にならぶ。高価な織物を売りつけるシモーネ、交換対象として浮気相手であるシモーネの妻を求めるグイード。欲望の対象としてのモノを金でやり取りすることが暗示されるなか、最後は暴力によって権力を持つものが残るという、オスカー・ワイルド(原作)にしてはいささか観念的にもとれる話。

このシンプルなストーリーを、粟国はそれらの象徴的な部分にひかりをあてるでもなく、また内面のドロドロした三角関係の心理劇を強調するわけでもない。歌手の動きも基本的なオペラ芝居の典型を出ない。よく云えばオーソドックスな、古き良きイタリアオペラ(これはドイツ語の作品だが)のレパートリー公演を観ているようである。それがはたしてツェムリンスキーの豊麗な音楽の世界にあったものだったかといえば疑問は残る。あちらこちらにある心理的なポイントはことごとくスルーされてしまう。とうぜんのことながら、愛する恋人を殺した夫への愛を妻が突然歌いあげるという唐突な結末は、説得力がないままだ。権力が生みだす倒錯的な欲望をみせるこの衝撃的な結末は、説得力をもって示されてはいない。

『ジャンニ・スキッキ』では巨大なスケールの机が基本舞台で、そのうえにはこれまた巨大な本や文房具にまじって経済活動の象徴である天秤測りが鎮座している。あまりにおおきなオブジェたちのあいだでたくさんの登場人物たちが右往左往するさまは、それだけで欲に目がくらんた凡夫たちの哀れさを強調していて大成功。アクティングエリアとなるその机の面は、オーケストラピットに迫るぎりぎりまで迫り出した八百屋(傾斜のある舞台)になっており、そのうえで歌い演じる歌手たちはヒヤヒヤだったのではないだろうか。だがそのシチュエーションそのものが、ともすれば破滅に向かって転げ落ちてしまいかねない強欲な人間の危うさは確かに表現している。ソリストたちのカラフルで個性あふれる衣装も、それぞれの性格をあらわしており見ていて面白い。

天秤の片方に死んだブオーゾの遺体を乗せ、もう片方に金貨を乗せるシーンがあり「人間の価値と尊厳に値をつける」ことにブラックなユーモアを感じドキリとさせられたのだが、その後天秤はかなり無造作にいろいろと使いまわされており、せっかくのその存在はいささかぼやけた。このあたりが粟国の演出が良くも悪くも感覚的というところである。

ブオーゾが息を引き取り、かつスキッキが隠れるベッドは、巨大な本(タイトルはダンテの『神曲』と読める)。表紙をめくったなかは「地獄篇」の挿絵(ドレによる有名なもの)だが、それはジャンニ・スキッキの名前が登場する第三十章のものではなく、第十章のファリナータについてのそれである。それはたまたま選ばれたものなのか、それともそこに意味を見出すか、考えてみるのも面白い。

 

キャストでは『フィレンツェの悲劇』の分厚いオーケストラのサウンドのなかにあって、レイフェルクス、グリヴノフ、齊藤純子の三人がいずれも難易度のあるこの曲を一定の水準で聞かせる。とくにグイードを歌うグリヴノフの歌の確実さが際立っている。

『ジャンニ・スキッキ』のタイトルロールを演じたカルロス・アルヴァレスがその歌唱といい、色気のある存在感といい、ひとり抜き出ている。立ち居振る舞いがこのうえなく自然で、ここまでリアルに動けてはじめてこのデフォルメされた舞台装置が生きる。圧倒的に存在するもの云わぬ「物」と、それを前にしたナマの「人間」との対比が出るからである。そのアルヴァレスの「余裕」とも云ってよい舞台におけるありかたが、そのままジャンニ・スキッキという役にリアリティをあたえている。ブオーゾの真似をする声色も、十二分にホールに響き渡っており、かつその使いわけもうまい。さぞや手に入った役かと思いのほか、これでロールデビューというからさすがだ。

ラウレッタの砂川涼子、リヌッチョの村上敏明がさすがの安定した歌唱を聞かせる。とくに砂川は、ラウレッタのなかに本来ありながら見過ごされがちな凛とした強さがあり、その存在感が際立っていた。

まわりを固めるソリストのなかでは、ネッラを歌う針生美智子のひときわ伸びのある美声が印象的。志村文彦の安定した歌唱と存在感も目にとまる。志村のような脇をかためる素晴らしいソリストを擁していることは、新国立劇場の財産であろう。

 

 

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新国立劇場『紫苑物語』(新国立劇場オペラパレス)

 

佐々木幹郎・台本、西村昭・作曲の『紫苑物語』の世界初演。大野和士の指揮、笈田ヨシの演出で。

 

石川淳の同名の傑作中編を原作としたこのオペラは、今シーズンから新国立劇場オペラ部門の芸術監督に就任した大野和士の、新国立劇場から世界へ発信できるオペラを、との想いにより生み出された。

 歌人としての才能を父との確執により封印した宗頼は、叔父に手ほどきを受けながら弓矢の道を歩む。国司として地方へ派遣された宗頼が出会う、「血のちがうものども」、そして武による征服と破滅。それは主人公がアイデンティティを求める物語のひとつとしても捉えることができる。芸術家の欲望は世界を創造し、また崩壊させる。

オペラ化にあたってはかなり大胆にさまざまなことが変えられているが、舞台化にあわせて構成上さまざな工夫が必要なことは当然だとしても、テーマと巧みに張り巡らされた「結構」さえも無にしてしまっている部分もあるようだ。

原作では、宗頼が和歌の道を突如として捨てたのは、おのれの歌作において熟慮のうえ選びだした言葉を、父に添削されたことによる。ひとからも天才と云われ、自信もあったはずの「世界を手にしていた全能感」を打ち砕かれた彼にとって、父とはまさに去勢する父権的存在だ。その抑圧された欲望はある日、狐と家来を射殺したその瞬間、弓矢で生きるものの命を奪う暴力として突如姿をあらわす。しかもその無意識の構造に宗頼自身は気がついていない。彼がふたたび芸術と向き合うのは、山のうえで仏師・平太と出会ったときである。

しかしオペラの宗頼は、「古い言葉を組み合わせるだけの歌道には芸術的な価値はない」と云って能動的にその道を断つ。そしてそれに代わるものとして武の道を選ぶのだということに重点が置かれている。こうなると、既存の芸術はもう古いからこれからは行動あるのみだ、というような、よくあるアーティストの陳腐な自分探し物語にもなりかねない。

宗頼は歌の道を「断つ」のではなく「断たれる」ことに意味がある。宗頼の欲望を抑圧するのは父であり、同時にそれはこの世界を成り立たせている、無力な人間のちからでは如何ともしがたい巨大な壁である。そういう観点においては、父親役をコミカルなテノールの道化役にしたことに疑問がわく。たしかに原作でも旅立つ宗頼に矢を射かけられ狼狽する父親の姿は描かれてはいるが、それは宗頼の主観からの父親像であり、舞台としてキャラクターが可視化してしまうと、一瞬にして父親の物語上の重要な役割が意味を失ってしまう。父親役は重厚なバスまたは黙役であっても良かったかもしれない。なぜならその存在は、終幕において宗頼が矢で打ち負かすべき石の仏でもあるからだ。

 

西村の音楽はこの作曲家一流の緻密で豊饒な音響に満ちており、本人がこれまでの集大成と語るように、聴くものを陶酔させるきわめて完成度の高いもの。そのどこまでも続くエモーショナルなうねりは、スタイルは違えどシュトラウスの『エレクトラ』を思わせた。冒頭の狂気に満ちた宴のシーン、千草が正体を明かした狐言葉(歌舞伎の手法を思わせる)、いささか古典的ではあるが緊張感あふれた宗頼と叔父との対決など、くっきりとドラマを視覚化している。

ただし、まったくとは云わないが、歌詞を観客に聴き取らせることにほとんど関心が払われていないようだ。ある程度のイントネーションは尊重されているとは云え、はなからオペラの歌唱は歌詞が聞こえないものとして作曲されているように思えてならない。パンフレットに掲載された座談会のなかで西村は「とうとうたらり」という歌詞を「意味がわからない言葉」と語っているが(能楽の『翁』の冒頭に謡われるこの言葉が、水の流れるさまを写した擬音であると同時に、その意味内容を剥がされた呪術的な詞章であるという二面性をもつということを、まさか知らないわけでもあるまいが)、しかしながら意味はわからなくともその言葉が音(オン)としては識別できるからこそその無意味性が面白さをまとわせるのであって、それは歌詞が聞こえなくてよいこととはまったく違う次元の話のはずなのだ。

また、有意味な言葉と同じくらい「あぁ」や「おぉ」といった感嘆詞のヴォカリーズが全編をとおして挟まれているが、歌詞が判別しにくいために、歌詞がついている箇所とそのきわめて技巧的なヴォカリーズはほとんど等価なものになっている。結果、登場人物はなにか溢れんばかりの感情があるのだな、と知れるばかりである。なぜその感情の発露が、言葉がのせられたフレーズでも同じように可能だと考えられないのか不思議だ。だいいち、わたしたちは感情が昂ぶったとしても、日頃から「あぁ」とか「おぉ」とか声を発しているだろうか。(いるかもしれないが)

監修の長木誠司の言葉によればこの作品は、「ワーグナーの『悪い』影響で、延々とモノローグが続いて実にたるい、日本オペラの『オペラらしからぬ欠点』は、可能な限り回避」するべく、重唱部分を意識的に取り入れている。大野和士も「重唱のオペラだといって良いアンサンブルがたくさんあります。私はあえて、『日本オペラに革命が起こる!』と言いたいのです」と語りその特徴をあげている。もちろんその形式的な面白さはたしかにいたるところで感じられたが、歌詞にたいする配慮はなされていないので、聞こえなさは当然のことながら助長される。大野の云う「日本オペラの革命」とは、まさか歌詞を聞かせる努力からの開放を意味するはわけではあるまいに。

 

そんななか、キャストたちの驚嘆すべき歌唱には最大級の賛辞を送るべきだ。これほどの複雑で人工的なフレーズを精緻に歌いこなし、分厚いオーケストラのサウンドを突き抜けて声を響かせている。そして歌詞が聞こえにくい音楽のなかにあっても、一部の歌手はそれでも少しでも歌詞を聞かせようというプロフェッショナルな姿勢を見せた。なかでも、うつろ姫役の清水華澄は、ソプラノがこのようなフレーズを歌うにあたって他に類を見ないほど驚異的に歌詞が聞こえる。

いつもながらサウンドと音程の素晴らしい新国立劇場合唱団、複雑な音楽を熱量たっぷりに演奏した東京都交響楽団の演奏も特筆。

そして芸術監督就任後はじめて指揮台に立った大野和士の棒は、きれいにまとめるよりも(もちろん十二分にアンサンブルをまとめあげてはいたが)、むしろドラマとしての流れを作り出すことに意識を注いで成功している。神経をつかうであろうこういった現代作品の初演にありながらそれを全うする、そのオペラ指揮者としての姿勢と技術に脱帽である。

ことさら日本という舞台にこだわることなく作られたセットと衣装のなかで、きわめて集中力ある舞台を提供した演出の笈田ヨシ。鏡とそこに映し出される映像とを効果的につかい、物語世界に力強い骨組みを与えていた。序曲のなかで「和歌から弓矢へ」という黙劇をみせるのは、そののち繰り返されるエピソードとあまりに重複してやや過剰か。

 

 

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