黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

魂が救われるとき~『A GHOST STORY』を観て

 

二〇一八年の終わりを、すてきな映画でしめくくる幸せ。デヴィッド・ロウリー監督の『A GHOST STORY』を観た。

 

大事なひとを失った妻と、その妻の眼には見えない夫の霊との映画と云えばジェリー・ザッカー監督の『ゴースト』(1990年)が思い出されるが、この『A GHOST STORY』は悲嘆にくれ苦しみ続けるのが残された妻ではなく死んだ夫のほうであり、一貫してその地縛霊となってしまった夫の視点からものがたりがえがかれるところに大きな特徴がある。

 

古き良き時代を思わせるスタンダードサイズのスクリーンに、ポスターにえがかれたとおりの白いシーツをかぶった夫のゴーストが登場する。このCG全盛の時代にあって、古典的な演劇をも思わせるまさに「そのまま」のゴーストの姿は、ゴーストにとってはきわめてリアルな世界がそこに存在しており、それが生きているわたしたちの世界となんら変わることなく重なり合っていることを見るものに受け入れさせる。

 

夫を失った妻がひとりで帰宅し、失われてしまったものを埋めるがごとく、テーブルの上のパイを食べ続ける4分にわたる長回しのショットは圧倒的だ。この素晴らしく印象的なシーンは彼女の埋めることのできない喪失感の表現であると同時に、生きている者と死んだ者との時間の感覚の違いを示している。妻の感情が表現されるごく限られたこのこのシーンの長さにくらべ、ゴーストの視線の中ではしばしば時間は早送りされ、ショットが切り替わるあいだに何十年もの時間が経過していることも少なくない。そもそも彼らにとっての時間がわれわれのそれと尺度が違う。

記憶の集合である世界は、わたしたちにとっては不可逆的に一定の方向へ流れていくものだが、実体を持たないゴースト(この映画では地縛霊)的なものにとっては、それは一定でもなく、不可逆的でもない。監督自身もインタヴューのなかでタイムトラベルというコトバを使っているが、ゴーストの時間においては過去や未来という概念がない。それゆえむしろ彼らの世界は永劫回帰の円環である。

 

ラストシーンで示される未来永劫繰り返される輪廻からの解脱にも似た救済は、仏教的な世界観を知るわたしたちにとってはある意味馴染みのある、キリスト教的な文化のなかに生きる観客にとってはもしかしたら新鮮なものかもしれない。そしてそれはきわめてさりげなく、過不足なく見せられるのである。

 

 

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同じ顔の男たち〜『寝ても覚めても』を観て

 

 

わたしたちは、目の前の友人を指して「あなたはタレントの誰々に似ている」などという話をすることがある。もちろん本人や周囲の賛同を得られることもあるが、云われた本人はもちろん、周りの誰もそうだと思ってくれないような場合も珍しくない。

ある人物とある人物の顔を見比べて、それを「似ている」あるいは「そっくりである」と思うことは必ずしも他人と共有できるものではない。それはたんに目に見える外面的な要素そのものではなく、そのひとつひとつの要素に結びついた主観的な「感情」にもとづいた思考だからだ。

 

濱口竜介監督の最新作『寝ても覚めても』の公開に先立って発表された、雑誌やインターネット上でのさまざまな批評や記事にはあえて目を通さずに、原作である柴崎友香の小説だけを読んで映画館へ足を運んだ。映画化にあたってもっとも楽しみにしていたのは、麦と亮平の二人の「顔」についてどのように表現されるかという点であった。

つきあっていた麦に突然いなくなられた朝子は、何年も経って麦と同じ顔を持った亮平と出会う。朝子は亮平とつきあうことになるが、ある日俳優になっていた麦をテレビ画面で見て動揺する朝子は麦と再会してしまう。この基本構造は原作も映画も同じだが、原作で重要なポイントは、亮平と麦の顔が似ていることは周りの人々も認めるが、朝子がそっくり同じ顔だと思っているのとは違い、「同じ系統」である程度だと認識されていることである。後に朝子は亮平の写真と麦の顔を見比べて、二人がまったく似ていないと感じるようになるのだが、その意味で朝子の視点が「信頼できない語り手」のヴァリエーションにもなっている。それはつまり「二人の男の顔が瓜二つ」という認識は、朝子のある感情という条件下でしか成立していない幻想であるということだ。しかし濱口竜介監督の映画では東出昌大がひとり二役で麦と亮平をつとめており、つまり二人の男の顔が同じであることを、朝子だけではなくわたしたち観客にもキャスティングの段階で自明のこととして提示されている。

 

映画は原作とは細かい構成や設定がかなり異なっている。二人の顔がどこまでそっくりかという点については、明確に同じ顔の持ち主であるという事実が、朝子にとってのみならず関係者全員にはっきり認識されており、それはまったく同じ顔の麦と亮平が顔を合わせるという原作にはないドラマティックなシーンでも明らかだ。そのファンタジックな設定が、朝子のまさかの行動にある種の強引な説得力をもたらすと同時に、同時に周りの人物たちや観客により大きな衝撃を与えている。

麦と亮平の顔について、もう一点重要なポイントとなるのは、さきにも触れた「写真」である。麦がカメラを嫌がり一枚も写真を残さなかったのに対して、亮平は写真を撮らせている、という原作の設定は映画では破棄された。麦が写っている写真がない、というのは麦の存在にゴースト性をもたらし、リアルな世界の亮平との二項対立を形成し、作品のタイトルである『寝ても覚めても』につながる。映画ではそのリアリティの濃度の差はもっぱら東出昌大の演じ分けに委ねられている。麦の異様な軽さを前にしながら、朝子が亮平と過ごした時間を「長い素敵な夢を見ていた」とつぶやく倒錯感が、その先の展開を導くのに一役買っている。

 

東日本大震災、被災地の生活、東北の海と波の音、語り合う女友達、カメラをまっすぐに見つめる顔。濱口のこれまでの作品を思わせるモチーフが多く登場し、さまざまな連想をさせると同時に、やはり濱口の過去作とは大きく印象が違う。机を囲むシーンでカメラ側の一辺に誰も座っていなかったり、麦が去っていくのを見送る朝子を捉えるカメラが後ずさりしたりと、古典的とも云える手法があちらこちらで見受けられる。まるで観るものにその場にいて時間を共有しているような錯覚を起こさせる、あの濱口のリアリティは今作では希薄である。リアリズムからファンタジーへ。それはヒロイン以外に玄人俳優を起用したことに起因するのか、それとも濱口の新境地なのかは、興味のあるところだ。

 

原作の柴崎友香はこの作品について「目に見えたままを書いた」と語っている。柴崎の文章は一歩間違えば冗長にもなりかねないほど細かく情景や出来事を描写する。そのまなざしは、否応なくそこにあるものを写真や映像にしてしまうカメラのレンズと同じなのだろうか。いや、「目に見えたまま」というコトバのとおり、それは見ているまなざしの主観でしかありえないわけで、わたしたちは誰一人としてありのままを書くことなどできはしない。濱口竜介がわたしたちに観せてくれた映像は、誰のまなざしだったのだろうか。

 


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川の流れのように〜『手をなくした少女』を観て

 

話題になっている『大人のためのグリム童話〜手をなくした少女』を観る。

 

昔から知られているグリム童話『手なし娘』を現代に蘇らせた、セバスチャン・ローデンバックのアニメーション映画だ。監督自身がひとりですべての作画を手がけたというから驚きだ。クリプトキノグラフィーという手法が使われているそうだが、その自由な筆の線でえがかれる背景や人物は、東洋の水墨画を思わせる。何年か前に発表された高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を思い出させるような不思議な画面だ。

そのあいまいな線によって切り出される人物たちの持つイメージの変化(へんげ)していく自由さ。いや、切り出されるということさえ云えないかもしれない。揺れ動く最低限の輪郭線しか持たない絵は、これまたあいまいに「色」をあたえられるのだが、基本的に塗りつぶされることがないために、背景は透き通っている。まるで幽霊のように存在感がないはずの人物が、そのことでかえって際立った存在感を獲得するという恐ろしく奇妙な光景を目の当たりにした。

 

この映画でひじょうに印象的なのは、水、それも流れる水のイメージだ。川に流れる水はもちろんだが、主人公の父親が得た流れ出る黄金、母親の乳房からほとばしる母乳、畑に撒かれる水、また驚くことに木の上から放たれる尿にいたるまで。この作品のさまざまな「流れ」がわたしたちにみせるものはなんだろうか。

仏教的な世界観においては、わたしたちの存在というものは、絶えず流れ行く川のなかでたまさかに生じた「淀み」のようなものだと考える。同じように見える川の流れも、その一瞬一瞬でまったく違う水が流れて行くにすぎない。たしかに実在を感じているはずのわたしたちの身体さえも、存在論的にも確固たる同一を云うことはできないし、物理的にも分子レヴェルで絶え間ない入れ替えが行われていることは周知のことだ。

あやういまでにはかない線の集まりによってえがかれる人物たちは、それでもたしかにスクリーンの上で生きているかのように躍動する。はかないからこそ、何にでもなれる可能性を持ち続ける線たち。映画という時間の川の流れのなかで、観るものの覗き込みようによっていかようにでも姿を変え、なににでもなり得る可能性を示してくれる。

 

映画のラストシーンで、少女も息子も王子も、小さな一つの「しみ」となって自由に世界にはばたいて行く様がえがかれる。それはまるで、アニメーションのなかの人物なんて、流れ行くスクリーン上の時間のなかでの、たまさかの「しみ」のようなものに過ぎないのだと、わたしたちに語りかけているように思えた。

 

 

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