黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

裏切りもののコトバとともに

 

コトバについてはじめて真剣に考えたのは、いつのことだろうか。

 

子供のころは、無理やりおとなの仲間入りをしたような気になって、背伸びをしてもっともらしいことを云っていた。話をすることは好きだった。感じたままに話し、誰も考えないようなことを思いついては得意になって喋っていた。おそらく子供の時分は、コトバは自分の考えや思っていたことをまさしく表し、コトバはそれを間違いなく他の人へ届けてくれる、とナイーブに信じていたのだ。

 

それがいつのころからか、人付き合いが得意ではなくなっていた。

自分の発したコトバが、本当は自分の思っているとおりには相手に伝わっていない。それどころか相手になにか伝わっているかどうかもわからない。そんなことを漠然と感じるようになったからかもしれなかった。

人との交わりに違和感を感じながら、それでも話し続けた。信頼を失ったコトバを使って。

 

おとなになっていろいろな本を読むようになって、コトバまたは言語が人間のコミュニケーションのなかでどのような役割を果たしているのか、また人間がどのように言葉そのものをとらえるいるのか、またそのうつりかわりを知った。そこではコトバはおしゃべり坊主からの信頼を失っただけでなく、伝達する役割や、ときには意味さえも失っていたようだ。

 

ひとはそれでもコトバを使って話し、書き続けている。

本来出会うはずのない人と人。関係するはずのないモノとモノ。イメージ。意味。気持ち。それらをつなげていくことが出来るのは、結局のところコトバをおいて他にないからだ。それが常に裏切ることが看板の「峰不二子」のような存在だとしても。

 

ことばによって語ることのできない場所、つまりコトバのむこう側へ、やはり裏切り者のコトバとともに赴かなければならない。

むこう側の誰かとつながり続けていくために。