黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

『妹背山婦女庭訓』から「御殿」の場。

 

前半の主役である鱶七は松緑。拡がりに欠く発声や歌舞伎役者としては長すぎる四肢や小さな頭というハンディがありながら、近年それを乗り越え少しづつ成果を残してきた松緑のこと、期待を込めて観る。

声についてはより口跡がよくなり、鱶七らしい明るい伸びやかさがあるのが良い。最近気になっていたたたみかけるような早口にならないのも好印象。

問題は、しばしば身体から気が抜けることである。毒酒を花に注いでの見得などあれほど絵になるのに、土産の酒を見せつけるくだり、裏になっての「そりゃまたなじょに」、鉢巻を締めての「どうでごんす」などは力が抜けてしまいきまらない。全体に身体が素になる時間が多すぎて、芯の役として舞台を埋めるに至っていない。楽善の演じる蘇我入鹿の圧倒的な存在感(76歳の声ではない!)に張り合うだけのものがなければ、物語が成立しないだろう。

 

松也の求女と新悟の橘姫。二人とも現代的。それにしても若い女形はなぜだれも上背を殺さないのだろう。

 

いよいよ後半お三輪の入りになる。

お三輪は時代物での女形の大役のひとつだが、これだけの立女形の役としては珍しく、世話の要素が非常に濃いのが特徴だ。時蔵のどちらかといえばさっぱりとした世話めいた芸風がぴったりはまって、昔の歌右衛門とも近年の玉三郎とも違うお三輪をつくっている。

お三輪は云うまでもなく山家育ちの庶民の娘だ。どこにでもいる娘が自分の知らない世界に迷い込んで、知らないあいだに運命の渦に巻き込まれていく悲劇。時蔵のお三輪には、その庶民の娘としての際立ったリアリティがつねにある。官女たちのいじめにもあくまでリアルに翻弄されている。玉三郎のような倒錯したマゾヒズムの美しさではなく、理解できない「なにか」が自分を侵していくのに抵抗できない無力さ。それが花道での「あれを聞いては」の怒りと恨みの爆発に自然につながっていく。これは、きわめて人間的な、私たちのなかにもいるお三輪なのだ。

このお三輪がこと切れる場面でただ一箇所ぐっと大時代になる。求女を「恋しい、恋しい」と云いながら、求女と自分を唯一つないでいた苧環、この世では自分のものにはならなかった求女の代替物としての苧環を抱きながら死んでいく。時蔵の芸風からは珍しくほどこってりとして、美しい死に際。この一幕のクライマックスである。

 

鱶七あらため金輪五郎。この戻ったあとの松緑はきっぱりとしていて舞台をしめる。こことの対比を狙ってのことかもしれないが、やはり前半の気の抜けた身体が惜しい。

 


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