黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

無責任な大衆とアーティストのあいだに

 

RADWIMPSの新曲「HINOMARU」の歌詞が話題になっている件について6月11日、ボーカルで作詞を担当した野田洋次郎さんが自身のTwitterでコメントを発表した。「戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした」などと謝罪している。

(C) Excite Japan Co., Ltd.(2018年6月11日)

RAD野田「HINOMARU」歌詞について謝罪 「軍歌だという意図は1ミリもない」(エキサイトミュージック) - Yahoo!ニュース

 

6月6日に発売されたばかりのシングルに入っている「HINOMALU」の歌詞について、軍国主義である、軍歌を思わせるなどという批判が相次いだ。

批判にあった歌詞について、著作権の問題もあり全文をここに掲載することはできないが、日の丸を愛し、そのもとで日本という国家がひとつになって進んで行こうと高らかに謳う内容は、いわゆる「愛国心」を鼓舞するものである。「御国の御霊」といったような戦前を連想させる単語が頻出することで、それはより強調される。軍歌を思わせるという批判もしごく自然なことだ。

その批判に対し、作詞の野田は批判されるような意図は一ミリもない、という謝罪をtwitter上で行ったというのが経緯である。

 

アーティストとして世に送り出したものが、必ずしも送り手の意図通りに受容されるとは限らない。むしろその意図とは無関係に独り歩きしてしまうことが大前提だ。そして、それらは送り出された「場」によって様々な「意味」や「色」をつけられていく。歌詞や音楽に限らず全ての芸術作品、いやアウトプットされる全てのものに云えることだろう。

この「HINOMARU」問題については、いまの日本の社会というフィールドでこのような歌詞を発表すれば、「愛国的」または「軍国主義的」 という印象を与えるのは当然だろう。それを「なるほど、そういう風に戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました」といまさらのように気がつく野田はあまりにナイーブというか、アーティストとして無自覚過ぎる。野田は彼が書いた歌詞の内容ではなく、その点において批判されるべきである。ただ、本意ではなかったことを訴えたいのであれば、謝罪でも説明でも当然の権利としてすればよいし、それだけの話だろう。

野田の作詞した「HINOMALU」に対しての是非はここで問題ではない。この歌に共感する人もいれば、目くじらをたてて批判する人もいる。実際にインターネット上でのコメントも、歌詞の内容に共感する人は「謝罪する必要はない」と云い、反対する人は「けしからんから謝罪は当然」と云う。(その二つの反応の対立それ自体が、もう問題の本質からずれたところへ行ってしまっているのだが、それはまた別の話)

 

しかし、この謝罪に対して書かれたある反応に違和感を持った。

 

参議院議員の今井絵理子は自身のブログで、「野田洋次郎という1人の作家の想いや考えをストレートに偽りなく歌詞につづり、音を奏でることはいけないことでしょうか」と意見を述べた。そして「受け手の解釈も自由であり、それをSNSで表現することも自由です。しかし、それは『表現』という言葉こそ同じかもしれませんがアーティストのそれとは全く意味の異なるものです。受け手の個人的な解釈の拡散により作家に釈明と謝罪までさせてしまう今の社会の風潮には賛成することができません」と続けた。

アーティストの表現の自由が尊重されるべきことは論を待たない。しかし、この今井の主張するアーティストの特権意識を根拠付けるのはいったいなんなのか。アーティストだからこそ表現に無自覚であってはならないのではないか。たとえ表現が自由であったとしても、それへのどんな批判をも受け止める覚悟こそが、アーティストと無責任な大衆のつぶやきとを分けるものではないのか。どんなときも受け手は「個人的な解釈」をするものなのだ。今井がアーティストという出自をもつにもかかわらず、そのような認識をもっていることに驚かざるを得ない。

 

もちろん今井は歌詞の内容に必ずしも共感したからというわけではなく、アーティストとしての表現の自由という意味でブログを書いたのだろう。しかし、今井の書いたことは彼女の意図をはなれて独り歩きする。

今井は比例区選出だが、云うまでもなく沖縄出身の参議院議員である。世間で「軍国主義的」とレッテルを貼られてしまった歌を作ったアーティストを擁護する(ようにみえる)ブログを書いたのは、沖縄という場でどのように受け止められるのだろう。今井がそんな意図はないと云っても、独り歩きしたコトバに「意味」という服を着せるのは受け取り手がつくる「場」なのだから。

なにかをアウトプットするということは、結局のところそういうことなのだ。