黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

サマータイムとは誰の「時間」なのか

 

「自民党は2020年東京五輪・パラリンピックの猛暑対策として、時計の針を早めるサマータイム(夏時間)導入の検討に入る。安倍晋三首相(党総裁)の指示を受けたもので、早ければ秋に予定される臨時国会に関連法案を提出し、19年の試験実施を目指す。ただ、政府には慎重論が強く、政府・与党内の調整は難航しそうだ」

(時事通信2018年8月7日)

 

日本でも終戦直後にGHQの指導のもと数年間だけサマータイムが実施されたことがあった。当時のことを調べてみると経験者の多くがデメリットを感じていたようで、その後は話題になることはあっても盛り上がることはなかった。これまで70年のあいだわたしたちはサマータイムという制度そのものを、とくに必要としてこなかったと云える。

 

そもそもサマータイムを導入しているのは日本より高緯度の国・地域がほとんどである。これらの国々は夏になると日照時間が長く、その明るい時間を有効に使うことを目的に早くから取り入れられてきた。簡単に云えば「冬のあいだは陽にあたることが出来なかったが、夏になって早くから太陽が出るようになったから早起きして昼間を有効に使おう」ということである。それと同じ条件がいまわたしたちの住む国にあるのかと冷静に考えればそんなことは決してない。わたしたちの目の前の問題は、日照時間を有効に活用しようということより、むしろ日照やそれにともなう暑さを回避したいという真反対のことなのだ。暑さ対策としてサマータイムを実施しても、午前中のまだ暑さも厳しくないうちに仕事を済ませることはできるかもしれないが、そのあとの余暇時間はどうなるのだろう。また、ただでさえ暑さで体調を狂わされている身体は日の入りが相対的に遅くなることでますます寝不足になりはしないか。サマータイムは暑さ対策とはもともとなじまない制度なのである。

そもそも今回のサマータイム導入問題は、今年(2018年)の猛暑が想像をこえるものであったため、2年後のオリンピック対策として組織委員会会長の森喜朗が「サマータイム導入の検討を」と政府に要請があったことがきっかけであった。午前7時にスタートするマラソンもサマータイムで2時間時計を早めることで実質5時スタートになり、午前中のうちに競技が終われば選手も観客も涼しい環境で過ごせる、という論理だそうだ。しかしそれは競技の開始時間を早めれば済むことだろうし、公共交通機関もそれに合わせて臨時ダイヤで対応すればいかようにでも解決策はあるはずだ。またサマータイムにより夕方の競技が実質2時間繰り上がり炎天下で実施する羽目になることは云うまでもないが、それはどうでもよいのだろうか。また、オリンピックにあわせて新宿駅や渋谷駅をはじめラッシュ時の交通網の大混乱が予想されているが、競技の時間を早めるだけでなく社会のリズムそのものをずらしてしまうサマータイムでは、その問題はまったく解決されることはない。

 

このように思いつくだけでもデメリットだらけの日本にはそぐわないサマータイムだが、今回の政府の動きが問題なのは、「オリンピックのために」という大義名分によって社会のものさしそのものが恣意的に変更されるということそのものにある。

「巨人・大鵬・目玉焼き」と云われたような、大衆がある程度の価値観を共有していることが前提であった時代と違い、これだけ関心が多様化した現代の日本においては、オリンピックは決して大多数の国民のマストなイベントではありえないことは明らかだ。それにもかかわらず、すべての日本国民がオリンピックを楽しみにし、そのためならば学業や仕事を犠牲にすることも厭わないと思っている「かのように」ストーリーが誰かの手によって作られていく。(実際に、オリンピック期間中は大学を休みにし学生はボランティアに従事するべきだとの信じがたい方針が政府からすでに示された)そのストーリーにのれない多くの脱落者の生活を支えている時間は、涼しいうちにマラソンを終わらせるための時間とくらべれば取るに足らないものだと云うわけだ。

これはオリンピックだけの話ではない。存在するかどうかもわからない「民意」にあわせて、わたしたちがそれぞれ持っている時間や空間は歪められていく。それはときには期間限定のサマータイムなどではすまないような、不可逆なものかもしれない。その可能性を誰も否定できないのである。

 

毎年8月6日には広島で平和記念式典が執り行われる。原爆が投下された午前8時15分には平和の鐘が鳴らされ内閣総理大臣をはじめ数多くの参列者が黙祷を捧げる。サマータイムが導入された年、その鐘はいったい何時に鳴らされるのだろう。その鐘に合わせて黙祷を捧げる想いは、誰と共有されるのだろう。時間に結び付けられたはずの記憶が、引き剥がされることになりはしないか。

人間が人間であるのは、記憶という「ものがたり」を継承する生き物だからである。その記憶の運び屋である人間にとって、それぞれが持っている時間は決して誰かに踏みにじられて良いものではない。「あなたの時間」は、「あなたのもの」なのだ。