黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

八月納涼歌舞伎第一部(歌舞伎座)

三部制の八月歌舞伎座。まずは第一部を観る。

 

『花魁草』は昭和56年に七世梅幸にあてて北条秀司が書き下ろした新歌舞伎。新派でも一度取り上げられたのち歌舞伎としては7年前に新橋演舞場で久しぶりに再演され、今月が再々演である。

江戸をおそった地震と火事のなかで偶然に出会った大部屋役者と女郎。その後二人は田舎でひっそりと暮らしていたが、男の出世のために女が身を引くという、典型的な新歌舞伎の人情物。母親も自分もともに嫉妬から人を殺めた経験をもつという女が、惚れた男が人気商売に復帰することでまたその「呪われた血」がよみがえるのではないかと恐れて身を引くところが、類型からはずれている。そこをどう見せるか。

お蝶を演じる扇雀は、序幕は特にさしたることもないが、栃木宿での慣れぬ家事にとまどいながら暮らしている様子にリアリティがあって上手い。米之助への過去語りは、母親から受け継いだ人殺しの血に対しての恐れは意外なほど希薄だが、逆にそのことで独特の人物像をえがくことに成功している。年頃の女から好意を持たれる幸太郎を見て湧きあがる嫉妬。「甥とおば」と偽ることのできるほどの幸太郎との年齢差からくる不安。だからこそ幸せになるために一歩踏み込んでいけない臆病な自分がいる。母親譲りの「呪われた血」はここではエクスキューズに過ぎない。それどころか自身の過去の殺人はそもそもそのためにお蝶の作り出したフィクションかもしれないのだ。米之助に思わず「かわいい人だなぁ」と云わせる、自分を信じられない一人の弱い女がそこにはいる。大詰で橋の上から出世した幸太郎の後ろ姿を見送る姿は、自ら幸せを手放してしまった自分へのあまりに切ない自己肯定である。それは作者の書いたオリジナルなお蝶ではないかもしれないが、もっと整理すれば現代に通じる新しい可能性があるように感じさせた。

幸太郎の獅童、米之助の幸四郎は昭和のにおいのするこの作品を現代的なテンポ感で運んでいくが、ニンが合っていないこともあり上滑りしている。

脇では梅枝のお松がうまく、また短い出番ながら市蔵の達磨屋がさすがの存在感。

 

二つの新歌舞伎のあいだに舞踊『龍虎』。

 

後半は『心中月夜星野屋』の新作初演。落語の『星野屋』をもとに、一時間もない気楽に観られるコメディに仕上げている。

世話になっている星野屋照蔵から心中してくれと頼まれたおたかが、母親のお熊の入れ知恵でなんとか自分だけ助かろうと画策する。互いに騙り騙られ、最後には観客もだまされて幕となる、よくまとめられた小佐田定雄の台本。

これでもかというくらい歌舞伎のお約束のセリフや型を入れ込んでのパロディは、歌舞伎好きなら腹をかかえて笑ってしまいそうなのだが、ひとつの独立した芝居として観たときにそれらがきちんと成立しているのかと云えば疑問だ。内輪のファンのための限定版の「お楽しみ」としてはこれでも良いが、落語由来の歌舞伎作品として先行する『文七元結』や『らくだ』のようにレパートリーとして再演されるためには、さらなる演出の整理が必要かと思われた。

その中にあって、おたか演じる七之助はこのようなパロディにおいても実に丁寧で上手い。芝居好きな照蔵の歌舞伎かぶれの真似事を市川中車が演じるというある意味ブラックな配役。

 

 

 

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