黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

八月納涼歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

『盟三五大切』の久々に歌舞伎座での上演である。幸四郎をはじめとした若手中心の一座だが、間違いなく今月の白眉であり、また近年上演された南北作品のうちでも特筆すべき舞台であった。

四世鶴屋南北は、少し遅れて活躍した河竹黙阿弥とともに江戸の「悪」をえがいた世話物で高く評価されている。のがれられない因果に恐れおののきながら「悪」にはまってしまう人間の弱さをえがく黙阿弥に対して、南北の作品は、自分のおかれた運命を受け入れ突き進む人間のグロテスクな「悪」を特徴とする。それがどのように表現されているかが見どころである。

 

幸四郎の源五兵衛は、小万を身請けするために百両の金を出す決断をするに至る過程のていねいさ、それが騙されたと知ったときの怒りのわきあがるさまにリアリティがあってよい。それでいてこの源五兵衛はけっして悩みもしないし後悔もしない。そのリアリティと強さの両立が南北物の魅力であり同時に難しさであるわけだが、幸四郎はそれを見事にクリアしている。

「五人切の場」で姿を現した源五兵衛の窓から半身乗り出してのきまりはゾクッとするほど怪しさを見せるが、その後の五人切は拍子抜けなほどサラサラと進む。『伊勢音頭』の殺し場のような洗練された型があるわけでもなく、古風なやり方だけでは気が抜ける。

幸四郎が圧倒的なのは、次の四ッ谷の長屋での殺し場。命乞いをしたのにもかかわらず幼子を殺され「鬼じゃ、鬼じゃ」と詰め寄る小万に「汝ら二人が、みどもを鬼となしたのじゃ」と絶叫する源五兵衛。裏切られたことへの怒りから復讐を果たすその瞬間、人間が逆らうことができない運命の理不尽さが舞台に拡がる。しかしここに幸四郎の新しさがある。迷うことなく小万と幼子を手にかける彼は、なにかに取り憑かれたわけではないし、気が狂ったわけでもない。「鬼になった」恐ろしい自分を見つめているもう一人の自分がそこにはいる。そのもう一人が「汝ら二人が、みどもを鬼となしたのじゃ」と叫ぶのだ。圧倒的な強度をもった「悪」である源五兵衛と、それをどうすることもできないもう一人の源五兵衛の重なり合う悲劇。花道をゆっくりと入っていく幸四郎の姿に、観客はその二人の源五兵衛を見るのである。南北の古典が全く新しい顔を見せた瞬間であった。

大詰。生首を前に茶漬けを食べる有名な場面だが、隠れ家の庵室まで逃げてきた源五兵衛はなぜか茶漬けを自分では口にしないまま、「小万、お前とこのように食事がしたかった」と生首に声をかけて白米を食べさせる。幸四郎の現代人としての感覚が生首を前にして食事をすることを拒んだのかもしれないが、せっかく前場まであったグロテスクな南北の世界が消え去ってしまったのは残念だ。このような弱々しい源五兵衛(実は不破数右衛門)に吉良邸に討ち入ってもらいたいとは思わない。討ち入りに参加した赤穂浪士たちが、忠義のためにそれぞれ理不尽な運命を受け入れてそれに至ったことへの、南北の批評性が失われてしまうからだ。

 

獅童の三五郎は、旧主への忠義とそのためなら手段を厭わない悪党振り、また女房に甘える憎めない可愛さと、いくつもの面をうまく演じわけ好演。ことに幕切れで腹を切ってからの述懐は充分に聞かせる。ただ、持って生まれた悪声は仕方がないにしても、全幕を通して科白回しにもっと工夫がないと生世話物のテンポが出ないし、なにより観客に意味が伝わらない。

七之助の小万は、四ッ谷の長屋での前述の殺し場が良く、幸四郎とのやりとりは鬼気迫るものがあった。幸四郎のつくりあげる緻密な芝居に対抗できる女形は、こんにちでは七之助をおいて他にはいないだろう。この小万の芝居がそれまでどこか他人ごとに見えるのが、すべてはこの殺し場を活かすための伏線だとしたら、たいしたものだ。

 

演出面で一つ気になったのは、序幕の源五兵衛浪宅の大道具。四ッ谷の長屋が実にていねいに作り込んであるのに対し、こちらは壁も床もぞんざいである。奥行きも広すぎるだろう。畳も家財道具も持っていかれた貧乏長屋だからこそ、そのリアリティがなければせっかくの芝居も空々しく見える。

もう一点。小万を殺してその首を持った源五兵衛が長屋を出るときに雨が降るが、この効果的な雨音は黒御簾の雨団扇だけで良かったのではないか。次第にスピーカーから流されるリアルな雨音がそれにかぶされて大音響になっていくが、古典作品の中でいささかやりすぎな感がある。

 

充実した今月の『盟三五大切』は、古典の演目が現代の観客に対して、まだまだ多くの可能性を秘めていることを感じさせるものであった。襲名以来ますます充実した舞台を見せる幸四郎、次の座頭公演が楽しみである。

 

 

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