吉右衛門の十八番ともいえる『俊寛』。初代吉右衛門のあたり芸だったこともあり、当代も頻繁に取り上げるのでまたかの感はあるが、これがまた傑作である。
『俊寛』は義太夫狂言のなかでもいささか特殊な演目である。長い間の貧しい島暮らしゆえに体力の衰えた俊寛をリアルにえがくため、いくつかの部分をのぞいては動きも地味だ。俊寛の出からして、花道ではなく舞台下手奥の岩陰からトボトボと進み出る（これははぜひ見直すべきかと思うが）といった具合に、丸本歌舞伎の持っている「動きの面白さ」をことごとく排して型が作られている。そのため俊寛の「心理描写」とも云える現代的な演技で埋めないことには、そもそも舞台が成り立たない。
吉右衛門は、古典歌舞伎らしい味わいときわめて現代的な内面とをあわせ持つ、今日では並ぶもののない時代物役者である。その名優が、今まで以上に徹底して気持ち本位でつとめ、ひとつの到達点としての『俊寛』を見せた。
前半はしどころもなくいささか単調だが、上使の持参した赦免状に自分の名前がないことを知ってからは、息もつかせぬ突っ込んだ芝居である。ことに今まで以上に妻が殺されたことを知った瞬間の表情、千鳥に三悪道を語り船に乗るよう説得する下りは印象的。去りゆく船を見送り、艫綱に縋りつくがすぐに自らの意志でそれを海に投げ出す。ドタバタ醜くもがくこともなく、必死で思い切る俊寛である。幕切れ、松の枝を折り崩れるように身を投げ出す型は、岩から落ちるかと思うほどの勢い。呆然と海の彼方を見つめる吉右衛門の顔に浮かぶのは、もはや未練も、また諦観さえも超えた、なにものでもない「無」そのものであった。
又五郎の瀬尾は近年稀に見る傑作。「黙れ、俊寛」「清盛公の厳命だ」などの手強い突っ込み、踏み込んで腰を落とした形のよさ、声がいささか軽いことが気になるほかは、亡き富十郎を思わせる素晴らしい瀬尾である。歌六の丹左衛門は口跡のよさに加え、科白を受けるあいだに自然と「情け」を感じさせて秀逸。雀右衛門の千鳥はことさら女らしさを強調しないのがかえってよく、哀れさを感じさせる。ことに「鬼は都に」と船を見返す形の美しいこと。菊之助の成経、錦之助の康頼、また伴侍にいたるまで揃いも揃った名舞台。ひと幕通して語った葵太夫の素晴らしい竹本も特筆ものである。
ただあえて云えば、これはあくまでも、平成の世に吉右衛門が磨き上げた『俊寛』の完成版であるということだ。この作品自体は、もう一度誰かの手で型を洗い直すべき余地が多い。それは、次世代の仕事になるだろう。
『幽玄』は能の演目である『羽衣』『石橋』『道成寺』を玉三郎が新たに歌舞伎化したもの。いうまでもなく、歌舞伎舞踊の古典になっている既存の演目とはまた別のものであり、近年共演を重ねる和太鼓集団「鼓童」とのコラボレーションといった舞台である。
結論を先に云えば、タイトルに『幽玄』とあるにもかかわらず、そこに展開されるのは幽玄というコトバとはかけはなれた鼓童と玉三郎のショウであった。しかも、ブラックボックスの舞台などであればより効果的かと思われる演出も、歌舞伎座の板の上ではなんとも中途半端だ。
『羽衣』は舞台奥に松羽根目の張り板があるのみの舞台で、基本的には流れや衣装などは能の『羽衣』を下敷きにしている。総じて印象の薄いまま進み、唯一引き込まれるのが本行通りシンプルに演じられた「東遊びの駿河舞」のクセから舞の部分という皮肉。
『石橋』は鼓童の演奏と獅子たちの「毛振り」の競演。
照明にこだわった『道成寺』が結果的にもっとも見応えがあった。赤いロウソクに囲まれたディズニーシーのような幕開きはともかくも、仄暗い中での「乱拍子」は幻想的で印象に残る。また、鞨鼓を付けての踊りは鼓童の三人の鼓手の妙技とあわさって見応え充分で、鼓童が参加した意味がもっとも感じられるシーンであった。しかしながら鐘から後シテが姿を表す場面や幕切れなどは、鼓童の面目躍如といった迫力ある演奏はたしかに素晴らしいが、それに引き換え視覚面はいささか雑で、もっと工夫があって然るべきだろう。
歌舞伎座の公演に新しいレパートリーが加わることは大歓迎だし、歌舞伎の可能性を拡げるためのさまざまな実験はつねに試みられるべきだ。しかしこの演目はすでにあちらこちらで玉三郎がやっている「鼓童」との共演システムを歌舞伎座に持ち込んだに過ぎないし、はたしてそれが歌舞伎の未来につながる舞台かといえばきわめて疑問である。
玉三郎自身が歌舞伎に飽きたという話は漏れ聞こえてくるが、あれだけの素質と才能をあわせ持った不世出の女形である。歌舞伎の未来につながる仕事でそれを活かして欲しいと思う人は、決して少なくないはずだ。
