黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

シス・カンパニー『出口なし』(新国立劇場・小劇場)


新作だけではなく、すでに古典となった戯曲を豪華なキャストでていねいに上演することで定評のあるシス・カンパニーの公演。ジャン=ポール・サルトルの不条理演劇の代表作『出口なし』を小川絵梨子の演出で観る。

 

ガルサン、イエネス、エステルというなにもかかわりを持たない三人の登場人物が、窓のない密室でたがいに自分のことを語り合い、相手を傷つけあうものがたり。

「一対一」であることを前提とするペアとちがい、三人の集団というのは「一対二」または「二対一」という不均等な関係か、「一対一プラスそれをながめる一」という立体的な構造を生み、その面白さから演劇や小説ではこのんでもちいられる設定である。ことにサルトルにあっては、わたしが見ている存在であると同時にわたしを見ている存在としての「他者」と、他者に見られている存在としての「対他存在」であるわたしの関係というのは、そのまま彼の哲学的なテーマであり、それを戯曲に落とし込んで実験したものがこの作品だ。

即自・対自・対他などの概念が詳細に検討されたサルトルの主著『存在と無』の出版からも、『出口なし』の初演からもすでに七〇年以上をへた今日にあっては、その考え方じたいは哲学的にも演劇的にもとくに目を引くものではないが、なぜか最近上演がつづいている。作品発表当時の閉塞感と現代が重なって感じられているのかもしれないし、数年前にこの『出口なし』を上演する公募シリーズがあったからかもしれない。

 

下手に赤い一人がけソファ、中央に水色系の長ソファ、上手に緑系の一人がけ椅子。ほかには奥にドアがひとつ。きわめてオーソドックスでシンプルなその舞台は、出ることのできない閉じ込められた空間という感じは始終しないし、中盤過ぎに突如ドアが開き外への脱出が可能になる(しかし誰も出て行くことはない)場面においてもなにも語ってはいない。そのかわりに、舞台の上手下手の壁の代わりに赤い襞のある幕が垂れ下がっているが、これがいかにも伝統的な劇場のオペラカーテンのようで、その枠組み自体が「ここで行われるのは芝居ですよ」と観るものに告げているようにも見える。

そうなるとその「枠組み」のなかでの芝居勝負なのだが、三人の芝居はこれもオーソドックスというか、二十世紀的な意味でのいわゆる演劇的なもの。イネス演じる大竹とエステル演じる多部未華子は借りてきたような「役柄」を身にまとっているのだが、そのいささか誇張されたパフォーマンスのわりにはみえてくるものが希薄。ガルサンの段田安則だけは、三人の中での立ち位置を評定やセリフの抑揚であまり強調しようとしないぶんだけ、かえって欲望と計算のいりまじる人間の姿が自然に感じられた。幕切れの「よし、続けるんだ」というガルサンのセリフは、このやり取りを楽しむしかない、いや楽しもうという悲観的だけではない面白さがあって印象的。それは「さあ、わたしたちはこの舞台のなかで芝居を続けるんだ」という意味にも聞こえる。

 

サルトルの台本をそのままに、ある意味ではそのままシンプルに演じるということは、作品を知らない観客にとってはわかりやすい舞台なのかもしれない。しかし、ガルサンが終幕近くに云う「地獄とは他人のことだ」という有名なセリフがあるが、他人の目にさらされ、他人の評価によって自分の欲望する対象さえもつくられてしまうことが自明である現代の社会という地獄に生きるわたしたちにとって、それがどこまで意味があることなのか。

それこそ「だから?」と問われればそれまでの「出口なし」な提示に過ぎないのではないか。

 

 

f:id:kuroirokuro:20180917144407j:plain