黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

二月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

今月は初世尾上辰之助(三世尾上松緑)の三十三回忌として、ゆかりのある狂言だて。故・辰之助の盟友であった菊五郎や子息の松緑がそのあたり役(「鮓屋」は辰之助は若い頃にやっただけなので、祖父二世松緑のあたり役か)を演じる。

 

『義経千本桜』から「鮓屋」。

近年は「木の実」「小金吾討死」とあわせて三段目全体を出すこともあるが、音羽屋では「鮓屋」のみ。三段目の核になるテーマは親子の別れ、家族の崩壊であり、それは『義経千本桜』通しての大きなテーマと関わっている。もちろんここでは主人公の権太とその父・弥左衛門(もちろん母や妹も)との別れが主軸になるが、それと同時に権太とその妻・小せん、一人息子の善太との別れの話でもある。それが「鮓屋」だけではまったくわからないし、権太の人物像も浅いものになりかねない。リアルな地の芝居よりも骨格のかっちりした型ものにその良さを発揮する松緑の芸風から云えば、この「鮓屋」のみという音羽屋系のやり方があっているのかとも思ったが、結果としてそれはどうだろうか。

松緑の権太はやはり前半のリアルな地の芝居が不器用で、母親を騙って金を出させる段取りも、もらった金を鮓桶に隠す仕込みも、段取りを追うにとどまっている。しかし、二度目の出になり片肌脱いで鉢巻を締めての姿、鮓桶をかかえての花道七三でのきまり、いずれもあざやかでその眼力が活きる。首実験はハラを割らずにぐっと力強く見せるのがよい。三度繰り返される「面上げろい」は一度目、二度目はよいが三度目は気が抜けてしまいまだ工夫の余地があるようだ。松緑が独特なのは、父親に刺され手負いになってから。残念なことにこの述懐も全体にテンポが悪く間延びをしているのはたしかだが、それでもなお面白いのは、「ありゃ、この権太の女房、せがれだ」とみずからの妻子を犠牲にしたことを明かすところを山場に持ってきたこと。その少しあとの「いかな鬼か邪神でも」と二人を縛り上げた様子を語るところも充分に間をとって聞かせ泣かせる。せっかくその設計図ははっきりしているだから、語りの緩急の計算がつけば、ほかの誰とも違う素晴らしい権太になるだろう。だからこそ、女房子供との別れに焦点をあてるならば、この「鮓屋」のまえに「木の実」の場があればと思われ、実に惜しいのである。

菊之助の維盛。前半の弥助として正体を隠しているあいだの優男ぶりはまだ硬さがあるが、「まず、まず」と弥左衛門にうながされ座りなおすそのイキひとつで正体を見せ性根が変わるのが見事。後半の維盛は芝居はぐっとつっこんでうまいが、いささか弥左衛門一家に共感しすぎるように見える。「道明寺」の菅丞相とまではいかなくても、ある程度住む世界の違う公卿としての距離感があるほうが、この幕の悲劇が際立つはずだ。

弥左衛門を演じるのは團蔵。全体にさらさらしているのはこのひとの芸風でいつものことだが、芝居はしっかりしているのにどこか他人事に見える。母おくらはまさかの橘太郎。斎入や竹三郎ほどの味やリアリティはなくても、しっかりとテクニックで見せ見事。

梶原景時は芝翫。首実験の場での姿は浮世絵の如し。しかし最後に知恵も情けもある武将であることが明かされるにしても、この場では手強い敵役のはず。顔の色は演じる役者によって様々ではあるが、今月の芝翫の演じるようなベリベリとした役作りにしては、いささか顔が白いようにも思える。

実はこれだけの名作にもかかわらず、これらの役者はみな今月初役。そのなかで唯一梅枝の演じるお里だけはすでに何度も手がけたもので、さすがに手慣れている。ことに今回は、惚れた弥助が実は平家の公達と知ってからのクドキが、まるで文楽人形のような動きの面白さのなかに、なんとも云えないこってりとした味わいがあって絶品。

 

『暗闇の丑松』は正直な男がはからずもひとを殺してしまったことから起こる悲劇。長谷川伸の残した数々の新歌舞伎のなかでも繰り返し上演される名作のひとつだが、戯曲としてのわかりにくさも持っている。

江戸をはなれて身を隠した後、ひさびさに舞い戻った板橋で宿場女郎へと変わり果てた妻・お米に出会う丑松。面倒を見てくれるはずであった四郎兵衛に騙され売られてしまったという、お米の言葉を信じることなく激しく詰る。なぜ丑松は女房のコトバはひとことも信じることはないのに、兄貴分である四郎兵衛のことは露ほども疑わないのか。その根拠が、舞台を見るものにはわかりにくい。四郎兵衛がどのような人物なのかは序幕でも詳しく言及されないし、丑松との関係もどれほどのものかわからない。本所に住む世話になった兄貴分を疑わない男が、目の前の必死で訴える恋する女房の弁明を信じられないのは、逆説的ではあるが、やはり丑松が「信じる男」だからだ。逃亡生活のあいだ片時も信じて疑わなかった、江戸で自分を待ってくれている女房の姿。そのはっきりと想いえがいていたものと目の前の現実のギャップが、丑松の目を曇らせるのだろう。

それが面白くなるか、わかりにくくなるか、ひとえに丑松を演じる役者のウデにかかっているのだが、菊五郎はさすがに見事である。お米に詰め寄る長科白から、お米との息つまるやりとりは、リアルでありながら立体的で明晰、観客に有無を云わさない説得力をもっている。歌舞伎座の広い空間に響き渡る七十六歳とは思えないつややかな声もさることながら、世話物にたけた音羽屋ならではの名人芸というべきか。

もちろん、お米を演じる時蔵の素晴らしさも特筆。「お酌してください」と信じてもらえない亭主とかわす最後の盃。だが、女郎と客のやりとりになぞらえたそれさえも拒まれる絶望。障子のかげから丑松を最後に見つめる、そのなんとも云えない姿が印象的である。

そのようやく大詰めで登場する四郎兵衛を演じるのは左團次。口ではひどいことを云ってはいるが、なんとなく憎めないひとの良いおじさんにしか見えず、これでは作品の構図が成り立たない。東蔵演じるその女房お今も、さすがに芝居はしっかりしているが老けは隠せず、丑松に色目を使うリアリティはない。

湯屋の場では番頭甚太郎を橘太郎が奮闘。前の「鮓屋」で母親を演じたのと同じ役者とは思えないこれまた達者な芸を見せる。

序幕の橘三郎のお熊の悪婆ぶり、本所での権十郎、彦三郎、亀蔵の美声の三人が見せるアンサンブルも心地よい。

 

『団子売』は芝翫と孝太郎。暗い演目が二作品続いたあとに、達者な二人の明るい踊りで締めくくる。

 

 

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