黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

新国立劇場『紫苑物語』(新国立劇場大劇場)

 

佐々木幹郎・台本、西村昭・作曲の『紫苑物語』の世界初演。大野和士の指揮、笈田ヨシの演出で。

 

石川淳の同名の傑作中編を原作としたこのオペラは、今シーズンから新国立劇場オペラ部門の芸術監督に就任した大野和士の、新国立劇場から世界へ発信できるオペラを、との想いにより生み出された。

 歌人としての才能を父との確執により封印した宗頼は、叔父に手ほどきを受けながら弓矢の道を歩む。国司として地方へ派遣された宗頼が出会う、「血のちがうものども」、そして武による征服と破滅。それは主人公がアイデンティティを求める物語のひとつとしても捉えることができる。芸術家の欲望は世界を創造し、また崩壊させる。

オペラ化にあたってはかなり大胆にさまざまなことが変えられているが、舞台化にあわせて構成上さまざな工夫が必要なことは当然だとしても、テーマと巧みに張り巡らされた「結構」さえも無にしてしまっている部分もあるようだ。

原作では、宗頼が和歌の道を突如として捨てたのは、おのれの歌作において熟慮のうえ選びだした言葉を、父に添削されたことによる。ひとからも天才と云われ、自信もあったはずの「世界を手にしていた全能感」を打ち砕かれた彼にとって、父とはまさに去勢する父権的存在だ。その抑圧された欲望はある日、狐と家来を射殺したその瞬間、弓矢で生きるものの命を奪う暴力として突如姿をあらわす。しかもその無意識の構造に宗頼自身は気がついていない。彼がふたたび芸術と向き合うのは、山のうえで仏師・平太と出会ったときである。

しかしオペラの宗頼は、「古い言葉を組み合わせるだけの歌道には芸術的な価値はない」と云って能動的にその道を断つ。そしてそれに代わるものとして武の道を選ぶのだということに重点が置かれている。こうなると、既存の芸術はもう古いからこれからは行動あるのみだ、というような、よくあるアーティストの陳腐な自分探し物語にもなりかねない。

宗頼は歌の道を「断つ」のではなく「断たれる」ことに意味がある。宗頼の欲望を抑圧するのは父であり、同時にそれはこの世界を成り立たせている、無力な人間のちからでは如何ともしがたい巨大な壁である。そういう観点においては、父親役をコミカルなテノールの道化役にしたことに疑問がわく。たしかに原作でも旅立つ宗頼に矢を射かけられ狼狽する父親の姿は描かれてはいるが、それは宗頼の主観からの父親像であり、舞台としてキャラクターが可視化してしまうと、一瞬にして父親の物語上の重要な役割が意味を失ってしまう。父親役は重厚なバスまたは黙役であっても良かったかもしれない。なぜならその存在は、終幕において宗頼が矢で打ち負かすべき石の仏でもあるからだ。

 

西村の音楽はこの作曲家一流の緻密で豊饒な音響に満ちており、本人がこれまでの集大成と語るように、聴くものを陶酔させるきわめて完成度の高いもの。そのどこまでも続くエモーショナルなうねりは、スタイルは違えどシュトラウスの『エレクトラ』を思わせた。冒頭の狂気に満ちた宴のシーン、千草が正体を明かした狐言葉(歌舞伎の手法を思わせる)、いささか古典的ではあるが緊張感あふれた宗頼と叔父との対決など、くっきりとドラマを視覚化している。

ただし、まったくとは云わないが、歌詞を観客に聴き取らせることにほとんど関心が払われていないようだ。ある程度のイントネーションは尊重されているとは云え、はなからオペラの歌唱は歌詞が聞こえないものとして作曲されているように思えてならない。パンフレットに掲載された座談会のなかで西村は「とうとうたらり」という歌詞を「意味がわからない言葉」と語っているが(能楽の『翁』の冒頭に謡われるこの言葉が、水の流れるさまを写した擬音であると同時に、その意味内容を剥がされた呪術的な詞章であるという二面性をもつということを、まさか知らないわけでもあるまいが)、しかしながら意味はわからなくともその言葉が音(オン)としては識別できるからこそその無意味性が面白さをまとわせるのであって、それは歌詞が聞こえなくてよいこととはまったく違う次元の話のはずなのだ。

また、有意味な言葉と同じくらい「あぁ」や「おぉ」といった感嘆詞のヴォカリーズが全編をとおして挟まれているが、歌詞が判別しにくいために、歌詞がついている箇所とそのきわめて技巧的なヴォカリーズはほとんど等価なものになっている。結果、登場人物はなにか溢れんばかりの感情があるのだな、と知れるばかりである。なぜその感情の発露が、言葉がのせられたフレーズでも同じように可能だと考えられないのか不思議だ。だいいち、わたしたちは感情が昂ぶったとしても、日頃から「あぁ」とか「おぉ」とか声を発しているだろうか。(いるかもしれないが)

監修の長木誠司の言葉によればこの作品は、「ワーグナーの『悪い』影響で、延々とモノローグが続いて実にたるい、日本オペラの『オペラらしからぬ欠点』は、可能な限り回避」するべく、重唱部分を意識的に取り入れている。大野和士も「重唱のオペラだといって良いアンサンブルがたくさんあります。私はあえて、『日本オペラに革命が起こる!』と言いたいのです」と語りその特徴をあげている。もちろんその形式的な面白さはたしかにいたるところで感じられたが、歌詞にたいする配慮はなされていないので、聞こえなさは当然のことながら助長される。大野の云う「日本オペラの革命」とは、まさか歌詞を聞かせる努力からの開放を意味するはわけではあるまいに。

 

そんななか、キャストたちの驚嘆すべき歌唱には最大級の賛辞を送るべきだ。これほどの複雑で人工的なフレーズを精緻に歌いこなし、分厚いオーケストラのサウンドを突き抜けて声を響かせている。そして歌詞が聞こえにくい音楽のなかにあっても、一部の歌手はそれでも少しでも歌詞を聞かせようというプロフェッショナルな姿勢を見せた。なかでも、うつろ姫役の清水華澄は、ソプラノがこのようなフレーズを歌うにあたって他に類を見ないほど驚異的に歌詞が聞こえる。

いつもながらサウンドと音程の素晴らしい新国立劇場合唱団、複雑な音楽を熱量たっぷりに演奏した東京都交響楽団の演奏も特筆。

そして芸術監督就任後はじめて指揮台に立った大野和士の棒は、きれいにまとめるよりも(もちろん十二分にアンサンブルをまとめあげてはいたが)、むしろドラマとしての流れを作り出すことに意識を注いで成功している。神経をつかうであろうこういった現代作品の初演にありながらそれを全うする、そのオペラ指揮者としての姿勢と技術に脱帽である。

ことさら日本という舞台にこだわることなく作られたセットと衣装のなかで、きわめて集中力ある舞台を提供した演出の笈田ヨシ。鏡とそこに映し出される映像とを効果的につかい、物語世界に力強い骨組みを与えていた。序曲のなかで「和歌から弓矢へ」という黙劇をみせるのは、そののち繰り返されるエピソードとあまりに重複してやや過剰か。

 

 

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