黒井緑朗のひとりがたり

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新国立劇場『フィレンツェの悲劇/ジャンニ・スキッキ』(新国立劇場オペラパレス)

 

ふたつのオペラを組み合わせた、いわゆる「ダブルビル」シリーズの第一弾として、ツェムリンスキー作曲『フィレンツェの悲劇』とプッチーニ作曲『ジャンニ・スキッキ』が取り上げられた。演出は粟国淳、指揮は沼尻竜典。

 

二十世紀初頭のほぼ同時期に作曲されたこのふたつのオペラは、フィレンツェを作品の舞台としているという共通点を持つ。フィレンツェはいまでこそレトロな街並みが楽しめる観光地であるが、これらのオペラの舞台として想定されている中世末期の共和制のはじまりからルネサンス期にかけて、かの街はヨーロッパ屈指の商業都市であった。その発展をささえたのは金融業と毛織物工業であるが、それはまさに、お金とファッションという実態のない人間の欲望の象徴でもある。『フィレンツェの悲劇』と『ジャンニ・スキッキ』を並べたとき、モチーフとしてそのふたつを容易に頭に浮かべることができる。

 

粟国の演出は理詰めというよりもきわめて感覚的なもの。どちらのオペラも、イタリア的な色彩を感じさせる、かなりデフォルメされた美しい舞台装置(横田あつみ)のなかで演じられる。

『フィレンツェの悲劇』では崩壊しふたつに割れた建物(破綻した夫婦関係を連想させる)が中央にそびえ、そこから巨大な布のようなメタリックなオブジェが冷め固まった欲望のごとく流れ出ている。無数の糸を紡ぐ糸車が象徴的に舞台にならぶ。高価な織物を売りつけるシモーネ、交換対象として浮気相手であるシモーネの妻を求めるグイード。欲望の対象としてのモノを金でやり取りすることが暗示されるなか、最後は暴力によって権力を持つものが残るという、オスカー・ワイルド(原作)にしてはいささか観念的にもとれる話。

このシンプルなストーリーを、粟国はそれらの象徴的な部分にひかりをあてるでもなく、また内面のドロドロした三角関係の心理劇を強調するわけでもない。歌手の動きも基本的なオペラ芝居の典型を出ない。よく云えばオーソドックスな、古き良きイタリアオペラ(これはドイツ語の作品だが)のレパートリー公演を観ているようである。それがはたしてツェムリンスキーの豊麗な音楽の世界にあったものだったかといえば疑問は残る。あちらこちらにある心理的なポイントはことごとくスルーされてしまう。とうぜんのことながら、愛する恋人を殺した夫への愛を妻が突然歌いあげるという唐突な結末は、説得力がないままだ。権力が生みだす倒錯的な欲望をみせるこの衝撃的な結末は、説得力をもって示されてはいない。

『ジャンニ・スキッキ』では巨大なスケールの机が基本舞台で、そのうえにはこれまた巨大な本や文房具にまじって経済活動の象徴である天秤測りが鎮座している。あまりにおおきなオブジェたちのあいだでたくさんの登場人物たちが右往左往するさまは、それだけで欲に目がくらんた凡夫たちの哀れさを強調していて大成功。アクティングエリアとなるその机の面は、オーケストラピットに迫るぎりぎりまで迫り出した八百屋(傾斜のある舞台)になっており、そのうえで歌い演じる歌手たちはヒヤヒヤだったのではないだろうか。だがそのシチュエーションそのものが、ともすれば破滅に向かって転げ落ちてしまいかねない強欲な人間の危うさは確かに表現している。ソリストたちのカラフルで個性あふれる衣装も、それぞれの性格をあらわしており見ていて面白い。

天秤の片方に死んだブオーゾの遺体を乗せ、もう片方に金貨を乗せるシーンがあり「人間の価値と尊厳に値をつける」ことにブラックなユーモアを感じドキリとさせられたのだが、その後天秤はかなり無造作にいろいろと使いまわされており、せっかくのその存在はいささかぼやけた。このあたりが粟国の演出が良くも悪くも感覚的というところである。

ブオーゾが息を引き取り、かつスキッキが隠れるベッドは、巨大な本(タイトルはダンテの『神曲』と読める)。表紙をめくったなかは「地獄篇」の挿絵(ドレによる有名なもの)だが、それはジャンニ・スキッキの名前が登場する第三十章のものではなく、第十章のファリナータについてのそれである。それはたまたま選ばれたものなのか、それともそこに意味を見出すか、考えてみるのも面白い。

 

キャストでは『フィレンツェの悲劇』の分厚いオーケストラのサウンドのなかにあって、レイフェルクス、グリヴノフ、齊藤純子の三人がいずれも難易度のあるこの曲を一定の水準で聞かせる。とくにグイードを歌うグリヴノフの歌の確実さが際立っている。

『ジャンニ・スキッキ』のタイトルロールを演じたカルロス・アルヴァレスがその歌唱といい、色気のある存在感といい、ひとり抜き出ている。立ち居振る舞いがこのうえなく自然で、ここまでリアルに動けてはじめてこのデフォルメされた舞台装置が生きる。圧倒的に存在するもの云わぬ「物」と、それを前にしたナマの「人間」との対比が出るからである。そのアルヴァレスの「余裕」とも云ってよい舞台におけるありかたが、そのままジャンニ・スキッキという役にリアリティをあたえている。ブオーゾの真似をする声色も、十二分にホールに響き渡っており、かつその使いわけもうまい。さぞや手に入った役かと思いのほか、これでロールデビューというからさすがだ。

ラウレッタの砂川涼子、リヌッチョの村上敏明がさすがの安定した歌唱を聞かせる。とくに砂川は、ラウレッタのなかに本来ありながら見過ごされがちな凛とした強さがあり、その存在感が際立っていた。

まわりを固めるソリストのなかでは、ネッラを歌う針生美智子のひときわ伸びのある美声が印象的。志村文彦の安定した歌唱と存在感も目にとまる。志村のような脇をかためる素晴らしいソリストを擁していることは、新国立劇場の財産であろう。

 

 

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