黒井緑朗のひとりがたり

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舞台の間口について~歌舞伎の場合~

 

歌舞伎の公演が定期的に行われる劇場は全国各地にあるが、歌舞伎役者にとって歌舞伎座という場所はやはり特別な本拠地だと感じているようだ。それはもちろん歌舞伎を観るファンにとってもおなじだろう。現在の歌舞伎座は二〇一三年に建て替えられ再開場したが、二〇一〇年に前の歌舞伎座が取り壊されてからの三年のあいだ、新橋演舞場などで代替公演は行われてたものの、わたしたちはなにかあるべき中心がそこないような不思議な感覚に襲われていた。

ほかの劇場で観る歌舞伎と歌舞伎座のそれがまったく違って見えるのは、けっしてそのような精神的な意味合いだけではなく、歌舞伎座の舞台の独特なスケールによる。とくにその間口(舞台の横幅)の広さは、観るものへの印象はもちろんのこと、そこで行われている芝居そのものにも少なからず影響がある。

 

現在の第五期歌舞伎座は高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」の一部にはなっているが、劇場部分は基本的に第四期の歌舞伎座を踏襲したもの。舞台のサイズも間口九一尺、高さ二一尺と、以前と全く同じものが採用された。九一尺というと、十五間と一尺つまり27.6mである。これは空襲で焼けた戦前の第三期歌舞伎座もほぼおなじで、これは歌舞伎公演が定期的に行われるほかの劇場とくらべると、圧倒的に幅広な舞台である。

 

 【歌舞伎座】

  間口 27.6m 高さ 6.4m

 【新橋演舞場】

  間口 20.0m 高さ 不明

 【国立劇場(大劇場)】

  間口 22.0m 高さ 6.3m

 【南座】

  間口 18.1m 高さ 7.2m

 【松竹座】

  間口 17.3m 高さ 7.3m~9.0m可変

 

もちろんこれは機構上のデータなので、実際のアクティングエリアがそのままということはないが、こうして具体的な数字くらべてみると、歌舞伎座の舞台の間口の広さが突出していることがわかる。また、間口だけではなくその高さとあわせてみれば、異様なまでのその横長さが際立っている。横縦比は4.31:1となり、映画で云うところのスコープサイズ(ワイドスクリーン)のアスペクト比が2.35:1であることを考えると、歌舞伎座のプロセニアムは尋常ではない形状なのである。

これだけサイズが違うのだから、舞台の大道具もそれにあわせてさまざまに工夫をしなければならない。また、役者の立ち位置も変われば、歩く距離も変わる。歌舞伎が見えている構図そのものにも重要な意味をもたせる「絵面」の演劇だとすれば、劇場によってそれはまったくちがったものになっているはずだ。歌舞伎座とほかの劇場で観る歌舞伎がまったく印象が違うのはあたりまえのことなのである。

 

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第五期歌舞伎座の舞台

 

だが、それは歌舞伎座の特権性を意味するものではない。たしかに『助六』や『暫』のように大勢の役者が賑やかしく居並ぶものや、『仮名手本忠臣蔵』の「大序」のような儀式性を持った演目であれば、歌舞伎座の舞台はそれにふさわしい空間にちがいない。だが『勧進帳』や『外郎売』といった能から取材したいわゆる松羽目もののように登場人物が少ないものや、前述の『仮名手本忠臣蔵』の六段目や『双蝶々曲輪日記』の「引窓」のようなリアルな演技が要求される演目においては、その横に長すぎる舞台は間延びした印象を与えかねない。

もちろん、実力をもった役者であればその空間を「埋める」ことができる。よい役者は観客の眼をひきつけるので、舞台上の余剰な空間は気にならなくなるからである。むかしから歌舞伎役者は師匠や先輩役者から「歌舞伎座の舞台に立てるような役者になれ」と云われてきたそうである。これは歌舞伎座というステイタスのある劇場で役をもらえるようになれということと同時に、広い歌舞伎座の舞台の隙間を「埋める」ことができる芸を身につけろという意味でもあるだろう。

しかしどんなに役者がその芸で観るものの眼をひいたとしても、スターに目を奪われるばかりが歌舞伎ではない。役者と役者、大道具と役者との視覚的な位置関係が、そのドラマにおける関係性をあらわすということが歌舞伎における重要な要素のひとつであるならば、やはり広すぎる舞台が根本的に作品を損なっている面は否定できないだろう。そもそも、貧乏長屋が舞台であるはずなのに、その部屋がどこかのお屋敷の大広間と見紛うようなただっ広いものになっているのは、考えてみればおかしな話である。

 

江戸時代の芝居小屋は、そこまで間口が広くはなかった。明治になって、西洋の劇場に負けないものをと考えたのかどうかはわからないが、急速に間口は広くなっていく。歌舞伎座の異様に横長な舞台について、絵巻物の文化が歌舞伎の美意識のなかにあるからだ、といったような言説を眼にすることがよくあるが、それがきわめて限られた見かたであることは明白だろう。現在では四国の金丸座や国立劇場の小劇場が間口が六間から七間で、そこで上演される歌舞伎は明治以前はどれくらいの舞台で演じられていたかを想像させてくれる。

天保十一年に『勧進帳』が初演されたのは間口七間(約13m)程度の河原崎座だった。間口28mの現在の歌舞伎座と間口18mの南座とで、おなじ役者が演じる『勧進帳』を短期間につづけて観くらべたことがあるが、後者が圧倒的な緊迫感をもった素晴らしい上演に感じられたのも、その舞台に広さは無関係とは思えない。国立劇場の小劇場では毎年若手の大部屋役者による歌舞伎公演が行われているが、そこでは『寺子屋』や『十種香』などといった古典作品の本来上演されるべき寸法の舞台を観ることができる。

歌舞伎座が歌舞伎の殿堂でありつづけるためには、演劇やオペラなどではしばしば行われるように、演目によってはプロセニアムを狭めるなどといった、作品と役者を生かすための工夫がもっと考えられてもよいのではないだろうか。

 

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安政五年の市村座