黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

小田尚稔の演劇『善悪のむこうがわ』(ボルボスタジオ青山)

 

「美術手帖×VOLVO ART PROJECT」として、ボルボスタジオ青山で小田尚稔・作、演出の『善悪のむこうがわ』が初演された。その五月十五日の初日を観る。

哲学の古典的著作からモチーフを得て作品をつくりあげてきた小田尚稔が今回選んだのは、キリスト教的な道徳観の奴隷となったヨーロッパ人に警鐘をならすニーチェのアフォリズム集、『善悪の彼岸』である。

 

 舞台となる空間は普段はVOLVOのショウルームだが、中央に置かれた車を囲むように数十の丸椅子が座席として設けられている。車のそばには小田演劇ではおなじみのコート掛けに小道具がセッティングされている。

運転免許の更新と、そこで流される交通事故の賠償(VOLVOでよくクレームがでなかった)についてのビデオ。つきあいはじめる男と女と、別れる男と女。お洒落な南青山の店々と、風俗産業の求人募集。さまざまな対照的な風景が、時間軸をかなり複雑に入れ替えながら配置されている。そのなかで、ひとりの女(板橋優里)をはさんでふたりの男(伊藤拓、長沼航)が登場する。男たちは女とはさまざまな交流があるが、男同士では絡むことはほとんどない。それぞれの役はひとつの人格に同定できるようで、できない。それが台本・演出のたくみな構成によって、女とふたりの男それぞれの関係は(まったくキャラクターは異なるにもかかわらず)微妙に重なりあわされていて、なにかの選択肢から枝分かれした「そうでなかったもうひとつの可能性」として見える。三人の俳優の個性がきわだっているからこそ、その重なりあいが効果的に感じられるた。

 

ひとはつねになにか選択をすることを強いられながら生きている。意識的に選択をしていなくても、なにかをする(あるいはしない)ことは、必然的にそれは選択をしていることになる。それは良い選択だったのか、悪い選択だったのか、ひとはみずから選んだものを秤にかけて思い巡らす。このあたりが三月に観たおなじ小田の『是でいいのだ〜Es ist gut』と共通するテーマを感じさせた。

 

はじまって間もなくで語られるレーシック手術についての話が印象的。レーシック手術は、視力を回復するためにポジティヴなものとして選択される。しかし、その時点では視力は回復するかもしれないが、それがしばらくしてなにかトラブルになるかもしれないし、また二十年、三十年たってからどういう結果になるのか、それを判断するにはあまりにもデータがないという不安もある。時間がたたないと、良かれと思った選択が本当に良いものだったのか、それとも悪いものだったのか、それを判断することができないのである。

ひとの数だけ価値観があるという相対論なのではなく、ひとつの判断主体のなかでおこなわれる選択ですら、「時間」が流れるなかで善と悪をきめることなど永遠にできはしない。だれと結婚するか、どこにいくか、なにをするか、そこにつきまとう価値判断が、「時間」というベクトルのなかでそれが想像をこえて変わりゆくさまを、この作品は見せてくれているように思う。くりかえし登場する神宮外苑の銀杏並木のシーンも、その季節ごとに違って見せるさまざまな風景が「時間」によるうつろいを視覚的に想像させて効果的。

 

その「時間」のベクトルが、「空間」を移動する車に重ねられているのだろう。あまりに圧倒的な存在感をはなってアクティングエリアの中央にすえられた展示車両がさいごに見せるある「アクション」が、「時間」の歩き続けなければならないわたしたちが、ふと立ち止まる瞬間を効果的に演出している。そこで主役の女が見せるポジティヴな表情は、このうえなく心地よい余韻をもたらしていた。小田尚稔の演劇には、いまを生きていくことへの愛がある。

 

「愛によってなされたことは、つねに善悪の彼岸にある」(『善悪の彼岸』153節)

 

 

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