黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

七月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

歌舞伎座の昼の部は「歌舞伎十八番」からは『外郎売』、「新歌舞伎十八番」からは『高時』と『素襖落』と、成田屋ゆかりの演目がならぶ。

 

『高時』は市川右團次の北条高時で。

いわゆる活歴物のひとつとして河竹黙阿弥によってつくられた本作だが、皮肉なことに現在では活歴調の後半は上演されず、暴政ぶりと風流人としての面が同居する北条高時のその異様な人物像をえがいたこの場だけが残っている。
いっそカットしても良さそうな「門前の場」だが、今回は安達三郎演じる九團次、その母を演じる梅花、赤黒兵太の喜猿はじめとした侍たちのきっぱりとした芝居によって、きわめてわかりやすく整理されている。
「奥殿の場」は幕があがると右團次の高時が上手の柱に寄りかかって横向きに座っている。幕開きとしてはきわめて珍しい九代目團十郎以来の演出だが、こんにちでもまだその新鮮さは失われていない。高時が寄りかかっている柱は、もはや足元のおぼつかない鎌倉幕府の棟梁として、唯一すがりつくことができる頼朝以来の幕府というはかない権威の象徴にほかならない。ラストで天狗に誘い出され柱をはなれた高時が騙されたと悔しがるのは、その後の彼の運命を先取りして見せている。
しかし右團次は、そのような可視化された高時の心理を重要視してはいないように思われる。身体が動くひとだけに、そのきっぱりとした動きの面白さで見せているが、それがことごとく表面的に見える。そうなると、この作品全体にある古風な演出とリアルな部分のちぐはぐさが目についてしまうのは事実。
幕切れの高時のセリフは、朗々と発せられれば発せられるほど、見るものにその無根拠性ゆえの恐ろしい狂気さえ感じさせるもののはずだ。なぜならば高時はもう柱を背にしていないのだから。


『素襖落』は海老蔵の太郎冠者。冒頭の大名とのやりとりから姫御寮との対面まで、やや早口ながらきっぱりと言語明瞭、嫌味にくずれないことがきわめて好印象。リアルに笑いをとりにいく太郎冠者が多いなか、松葉目物らしい格さえ感じさせる。対する大名の獅童、姫御寮の児太郎も爽やかなまでに折り目正しく、見事にテンポ感のあるアンサンブルをつくっている。
「那須与一」の物語は、いささか乱暴かとも思えるところもなくはないが、鍛えあげられた身体の繰り出すその視覚的なドラマは、亡き富十郎を思い出させる緊張感に満ちている。ことに矢が放たれるその瞬間の、マウンドの投手のごとく右足をぐっと上げて後ろへ回した、型崩れとも紙一重なダイナミックな面白さ。宙を舞い波に揺れる扇と酒に酔った太郎冠者が重なりあうとき、海老蔵の身体は「物語のなかに解き放たれている」ように見える。
姫らが去ったあとは、やや酔いにまかせ笑いをとりにいく芝居が気になる。テンポと間が整理されれば、より首尾一貫したものになるだろう。
次郎冠者に友右衛門、三郎吾に権十郎、鈍太郎に市蔵とベテランを配し、ひじょうに見ごたえのある『素襖落』であった。

 

『外郎売』は来年の市川團十郎襲名披露興行のなかで「市川新之助襲名演目」として出されるとばかり思っていたが、本名である堀越勸玄の名前のまま演じることになった。

この勸玄が傑作である。それはたんに早口の言いたてを見事にこなして喝采をもらうといったレヴェルの話ではない。その美声が立体的に聞かせるセリフの見事さといい、指先まで気の入ったかたちの美しさといい、父・海老蔵とともに立派に荒事の主役としてひと幕を成立させている。

梅玉の工藤がいささか元気がなく暗いのが気になるが、獅童の朝比奈、児太郎の舞鶴らまわりもそろって好演。浅葱幕前の奴たちのセリフが明晰で意味もよくとおっているのもよい。

 

『西郷と豚姫』は残念ながら都合により未見。

 

 

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