黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

地点『三人姉妹』(KAAT)

 

横浜のKAATで上演された地点版『三人姉妹』の再演。観たいと思っていたが、ようやく叶っての観劇。

 

コミュニケーションの成立にたいする根本的な懐疑を孕んだチェーホフの古典作品。這いずりまわる俳優の身体の「なめらかでなさ」とも言うべきさまが、その困難さを視覚化する。

ロシア革命を前にした有産階級のありさまを象徴するかのようなショスタコーヴィチのワルツ第二番が繰り返し流れるとき、どうじにわたしたちは『アイズ・ワイド・シャット』を連想せざるを得ない。コミュニケーションの不可能性と、虚構の意味についてえがいたキューブリックの遺作を。

 

モスクワへ!という願いもむなしく土地を離れることができない姉妹たち。ひとはみな「ここではないどこか」をもとめて思いを巡らせるが、それは与えられることのない理念にすぎない。俳優もまた、舞台面を絡みあいながら這いずりまわる。その異様さが、発せられる言葉の何倍も饒舌に、行き場のない彼らの存在を語っている。

木々の姿を愛でるトゥーゼンバフが、自分が死んだらその木々の世界の仲間入りをするという場面(原作では第四幕)があるが、死んでもその美しい世界には加わることはないだろう。舞台上方には天井から何本もの木が生えており、それら美しい「モノ」の世界と床を離れられない人間たちのあいだに、けっしてひとつにならない断絶を感じさせるからだ。

 

アクティングスペースの床の両脇にずらりと記されたローマ数字。「Ⅰ」から「ⅩⅡ」までの数字が順不同にならんでいるところを見ると、時計、つまり時間ということなのだろう。俳優たちは冒頭、それらの時計の文字盤を蹂躙しながら這い出る。

「ここではないどこか」を求めるのは「いまではないいつか」を求めることでもある。『三人姉妹』のなかで、繰り返し語られる二百年後、三百年後の世界への希望。それは、いまここでは実現しておらず、また自分たちが生きているであろう近い未来では叶えられることはないという絶望の裏返しである。その遠い未来への希望は、こたえられることのない祈りと言ってもいいだろう。「神」という言葉が連呼されるそのとき、ゆっくりと照明が落とされ、劇中で唯一のブラックになる。

 

原作とおなじく「いまわたしたちが生きている意味」を問うオリガのセリフで、テクストが切り刻まれ徹底的に入れ替えられたこの舞台は幕を閉じる。しかし、それがけっして絶望ではなく、きわめてポジティブに響く。そのとき、いま目にしたのは『三人姉妹』を素材にしたなにかあたらしい作品なのではなく、やはり紛れもなくあの『三人姉妹』なのだと納得されられたのであった。

 


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