黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

八月納涼歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

八月恒例の納涼歌舞伎は、例年の通りの三部制。そのなかで唯一古典を出すのが第一部。

 

『伽羅先代萩』は「御殿」から。主役の政岡に七之助が初役で挑戦。いつもながら言語明晰、意味明瞭であることがよく、ひとつとしてそのセリフが疎かにされることない。「お館に悪人はびこり」もていねいかつ周到で、彼らのおかれた状況を観るものの頭に容易にうかびあがらせる。「もし毒」と言いかけて口に手をやりあたりを見回すそのイキの良さ、緊張感も特筆すべきうまさ。

「飯炊き(ままたき)」はカットせずに演じられる。茶道の作法にのっとって米を炊くこの場をカットするかどうかは公演によってさまざまだ。「飯炊き」がないとお腹をすかした千松が結局のところ何も食べないままに死んでしまうから可哀想だ、という半分冗談のような意見もある。しかし結局のところ、「飯炊き」が長く退屈に感じられるのであればカットすればいいし、それが役者の芸を堪能できる充実した時間になるのであればやるに越したことはない。結論から言えば、今回それはいささか長く感じられた。

「飯炊き」には相反するふたつの要素がある。ひとつは当然のことながら、毒殺の恐れがあるために空腹を強いられている若君・鶴千代とわが子・千松に、一刻も早くご飯を食べさせねばならないこと。七之助の政岡は手順は守りながら、必要以上に時間をかけず飯を炊く。端々に「少しでも早く空腹を癒やしたい」という思いが見え、そのてんにおいてはリアルなドラマとして成立している。だがそれと同時に、茶道の手順のかたちをていねいに見せるということも求められる。「なにを緊急時にそんなことを」というのはリアルな思考であって、それを言ってしまえば、そもそも作法など気にせずとっとと支度をすればよいことだ。しかし、そこが歌舞伎の型の面白さであると同時に、政岡という人物の根幹にかかわる部分だいうのは言いすぎだろうか。目的のために手段を選ばないということは当然ありうる。しかし忠に生き、義を重んじる政岡にとっては、目的達成のためにはあるべきやりかたをとること、すなわち正しい形式にのっとって行為することはきわめて重要なことなのだ。たとえそのために飯が炊けるのが遅くなったとしても。また、正当な主君をまもりぬくために毒見役のわが子が犠牲になったとしても。

七之助の「飯炊き」には、この行為そのものの美しさを重んじる形式性がいささか欠けているように見える。一例をあげれば、米を研ぐにあたって、そこに聞こえている義太夫と三味線に乗ることをせず、動きをサラリと流してしまう。結果としてそのすぐあとの「流す涙の水こぼし」で思い入れがうまく行かず、観るものに気持ちがせまってこない。30分を超える「飯炊き」を絶えず支配している形式性と、気持ち本位でリアルにすすめようとする七之助の演じ方のこのようなちぐはぐさは、残念ながらなんども感じられた。

あれほど知的に台本を読み込むことができ、類まれなる身体性をもった七之助に、それを望むのは無理なことではないはずだ。古典の役々を現代的に演じ成功している七之助だが、『十種香』の八重垣姫のように近代的な内面を持たない役などとは違い、リアルな内面のドラマが貫通する政岡のような役にあっては、よりそのバランスが求められるのではないだろうか。

しかし「御殿」の場の終盤、栄御前を見送ってひとりになってからは、この政岡が見違えるように素晴らしい芝居を見せる。「でかしゃった」からのクドキには、さながらギリシャ悲劇のアンティゴネーの嘆きのような陶酔感がある。セリフ(これまたきわめて明晰)が見事に立体的に構築され、懐剣を千松の死骸の横についてのきまりなど、動きも目が覚めるようなあざやかさ。こういう派手できっぱりとしたクドキは近年見られないのでたいへん貴重だろう。ここへきてようやく義太夫狂言らしさを目の当たりにして溜飲が下がる。

栄御前を演じる扇雀も初役。政岡との菓子をめぐっての繰りあげが盛りあがらないのは残念だったが、政岡とふたりきりになってからの密談はきわめて緻密で、秘密を打ち明けるのも、連判状をあずけるのも、見ていて納得のいくていねいな芝居。

そしてその扇雀の芝居に呼応するように、幕切れで医師・道益の妻小牧があらわれ、八汐のたくらみや、栄御前が「取り替え子」と信じたのも自分が吹き込んだことなどを明らかにする。いつもの『先代萩』では演じられないこのシーンがあるおかげで、ドラマがきわめて説得力あるものになった。

この小牧が出るために松島の役はカットされ、栄御前を迎えに出るのは幸四郎の八汐と児太郎の沖の井のふたりのみ。幸四郎も八汐は初役とのことだが、こちらは菓子折を抱えての引っ込みで堂々としたかたちを見せるのみで、ほかは意外にもあっさりとひととおり。

 

「床下」ではその幸四郎が仁木弾正。こちらはさすがに切ってはめたようなその姿がよく、不気味な悪を見せる父・白鸚と、あやしい色気を出す仁左衛門を足して割ったような立派な仁木。ただし、引っ込みの足取りはさらりとしていて拍子抜け。揺らめく蝋燭の炎のなかであやしく歩みをすすめる妖術使いというより、実録物の敵役を見るかのようであった。

男之助を初役で巳之助。声も響き、かたちもきっぱりとしていて荒事らしい姿。「ガッテンだ」といって一歩、二歩と下がるときに力が抜けてしまうのがもったいない。

 

休憩をはさんで『闇梅百物語』は夏芝居らしい妖怪たちのオムニバス舞踊劇。

吉原田圃裏の扇雀と虎之助のていねいな踊りがさすがの見どころ。また、最後の場でぶっかえってからの幸四郎演じる白虎のあざやかな動きも面白い。

あとはなんとも、なにを見てなにを楽しめばよいのか不明。暗闇のなかで光る骸骨の踊りにいたっては、ひたすらおなじ単純な動きを繰り返すばかりで(あのような演出では必然的にそうならざるを得ない)閉口する。夏休みの見世物小屋でアルバイトがやるような安易な子供騙しを、わざわざ歌舞伎役者がやることはない。

 

 

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