黒井緑朗のひとりがたり

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小田尚稔の演劇『悪について』(RAFT)

 

小田尚稔の演劇シリーズは、『悪について』(脚本/演出・小田尚稔)の再演。その初日を観る。

 

舞台にはいつものチェア、コート掛けのほかには白い布団のシンプルなベッド。天井からは照明器具がぶら下がっている。出演は香川知恵子、小林毅大、鈴木睦海、長沼航、新田佑梨の5人。

 

タイトルに『悪について』とあるように、本作のテーマは「悪」である。しかし、なにをもって「悪」とするかということはけっして明瞭ではない。「善」と「悪」を対比させても、また「悪であるもの」と「悪でないもの」を排中律的にわけようとしてもそれはおなじことだ。「悪」を言葉によって定義をすることはきわめてむずかしい。小田尚稔の『悪について』を観て、そこには言葉では定義するとができない「悪」というものが、いや正確に言えば相容れないという違和感を前にしたわたしたちのこころのありさまが、「距離」というもので可視化されているように思われた。

 

わたしたちは普段、意識しているかどうかを問わず、さまざまなものに嫌悪感をいだく。嫌悪感という言葉であらわされるほど明瞭なものでなくても、なにかしらのちょっとした居心地の悪さや気持ちの悪さといったものに囲まれていると言ってもよい。そして、その違和感をおぼえるものにたいして、わたしたちは「距離」をとる。

この作品はさまざまな違和感との「距離」に満ちている。歌舞伎町のホテル街の道端にころがったネズミの死骸との「距離」。はじめて性的な関係をむかえるであろう男と女の「距離」。そして、その手を振り払ったことでふたたび縮めることができなくなった「距離」。舞台奥(観客席が会場奥にあるので、ガラス張りになった入口側)へしばしば後退りしていく俳優と観客との「距離」も、そこにくわえることができるだろう。

このように、わたしたちは違和感をおぼえるものと「距離」をとることで、みずからを守っている。しかし「距離」をとるべき「悪」が、みずからのなかにある場合はどうしたらよいだろうか。ものがたり中盤になって語られる、ある夏の日の衝撃的な記憶。その罪の意識からのがれられない男の苦悩は、本作のクライマックスである。その「悪」がみずからが犯した罪であるとき、そこから「距離」をとろうにもとることができない。そのエピソードのなかから、「悪」というものがどのようなものであるのか、その言語化できないおそろしさが舞台いっぱいにひろがっていくのが見えた。

 

自分のなかの「悪」から「距離」をとるためには、その「悪」をそとへ押し出さなければならない。みずからの「悪」を言葉にして外化すること。それが告白(Confession)するということだ。劇中にも引用されるアウグスティヌスの主著のタイトルも『告白』である。

しかし、告白することで本当にわたしたちはみずからのなかの「悪」と「距離」をとることができるのか。小田尚稔が観客にむけるその問いかけに、そうだと答えることはけっして容易ではないはずだ。

そしてそれにたいする小田尚稔のこたえは、彼の傑作『是でいいのだ “Es ist gut”』で示されるテーマともつながっているのではないだろうか。

 

いずれおとらぬ見事な俳優陣のなかにあっても、新田佑梨の明晰な声がつくりだす魅力と、ラブホテルのシーンならびにラストシーンでみせる濃密な演技は特筆すべきもの。長沼航のなんともいえない存在感が素敵なアクセント。

 

 

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