黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

八月納涼歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

第三部は、『新版雪之丞変化』一本。映画やドラマなどで昔から親しまれてきたこの作品は、歌舞伎でも近年はおもに澤瀉屋系の役者によっていくたびもとりあげられてきた。花形役者の中村雪太郎(のちに中村雪之丞)が、みずからの両親の敵を討つという基本的な世界のなか、仇討ちをすることの意味、そして役者として生きることの意味を問う。仇討ものでありながら、歌舞伎のバックステージものにもなっているこの作品を、今月はかなり思い切った異色な演出で、まったくあたらしいものとして見せている。

 

基本的には歌舞伎座の素の舞台がつかわれる。場面によって、舞台奥一面をホリゾント幕がおおっていたり、スクリーンもなるパネルが置かれたりするが、なかには舞台の最奥面の壁やそこに置かれている付帯設備などがむき出しになるシーンもある。屋内の場面であろうと野外の場面であろうと、役者はむき出しの舞台面で立ち居する。まるでそれは、つねにさまざまな有形無形の「仮面」のもとで演じられる歌舞伎が、それを脱ぎ捨てたかのような強烈な印象を観るものに与える。観客の目にするのはただ役者そのものなのである。

ホリゾントやスクリーンパネルに映像がしばしば映し出されるのもこの舞台の大きな特徴だ。まるで劇中劇のように、雪之丞が演じる『伽羅先代萩』の政岡や『娘道成寺』の花子の舞台映像がそこには映し出される。またあるときは、そこに映し出された人物と舞台上の人物が会話をする。そしてまたあるときは、舞台にそれまでいた人物が姿を消したあと、映像はその人物の動きを追って映し出す。それらの映像は前もって収録されたものや過去の玉三郎の舞台映像もあれば、リアルタイムで撮影される(舞台のうえにビデオカメラを持った黒子があらわれる!)ものもあり、いずれも密接に舞台の芝居と関わっている。

序盤に中車が演じる仁木弾正が花道を引っ込んでいくさまを揚幕方向からカメラでとらえ、その映像が舞台奥のホリゾント幕に大写しになる場面がある。角度的にそのカメラには、ホリゾント幕に映し出された(そのカメラみずからが撮影している)映像そのものも映り込むことになる。結果として、ホリゾント幕には「あわせ鏡」を見ているかのように無限に増殖した仁木弾正の姿があらわれる。なにが被撮影対象でなにがその結果としての映像なのか、その境界をあいまいにするこのきわめて効果的なシーンは、きわめてメタ演劇的な要素をもった今回の『新版雪之丞変化』を象徴しているともいえる。

ある場面で「もはやなにが裏でなにが表なんだかわからない」という鈴虫のセリフがあるが、これらの実験的な演出により玉三郎がわたしたちに見せたかった「裏」とはなにか。それは歌舞伎という演劇ジャンルそのものの本質の部分である。近年古典的な歌舞伎への出演がめっきり減り、他ジャンルのコラボレーションを積極的に行っている玉三郎だが、いわゆる歌舞伎的な「お約束」をはぎ取りそれを裸にすることで、逆説的に「歌舞伎にはなにができるのか」つまり「なんのために歌舞伎をやるのか」ということを問うているのである。それは劇中で雪之丞が思い悩む「なんのために役者をやるのか/役者がやることには何の意味があるのか」という問いに通じているだろう。

 

だが、その意欲的なこころみはなかば成功しているが、残念ながらいささか中途半端な印象をうけるのも否めない。

映像とナマの芝居をからめる試みは、「連鎖劇」というそう新しくはない歴史をもっており、前衛的な現代演劇のジャンルではいまでもしばしば行われている。歌舞伎においても中村獅童がやっている「超歌舞伎」のような直近の例もある。それらにくらべると、前述の仁木弾正の引っ込みのような効果的な例をのぞけば、やや「ベタ」な使い方に終始している。笑いどころなのか真面目に見せたいのか、どちらともとれない映像も少なくなく、もうひとつ工夫があればと思わせた。また映像のなかの役者のセリフの音響面の配慮のなさは致命的で、なぜナマでセリフを発している役者のそれとレヴェルが合わせられないのか、技術的になにも難しくないだけにおおいに疑問が残る。

また、もっとも違和感があったのが、このような「なにもない」演出に歌舞伎座の空間がはたしてふさわしいのかという点だ。これがシアターコクーンのような劇場で、完全にブラックボックスのなかで上演されたら、もっとその効果はあがっただろう。もちろん歌舞伎座という歌舞伎にとって特別な劇場を丸裸にするからこそ意味はあるのだろうが、素の舞台に座って演技をする役者たちを見るとき、その薄汚れた木目の舞台面ばかりが否応なく目に入り、興をそぐ。

 

玉三郎はその意欲的な演出にまけず、ていねいな芝居でそのテーマを浮きあがらせている。映像としてわずかにしか登場しない波路(玉三郎二役)も、その美しい後ろ姿だけで魅了するのはさすが。

七之助も玉三郎の先輩格の役者を演じ不自然さを感じさせないのが見事。玉三郎とじゃれあいながら見せるさまざまな演目の名場面ダイジェストは見ていて楽しいし、楽屋落ちのネタも自然で笑わせる。中車は五役を入れ替わりに演じて奮闘。劇中劇で演じる仁木弾正は、意外と言ったら失礼だがなかなか立派。それぞれ演じ分けに工夫が見られて素晴らしいが、無理に五役をやらずとも、せめて雪之丞の師匠たる中村菊之丞だけでも弥十郎あたりのベテランが演じればバランスもよかっただろうに。

 

最後に「元禄花見踊」として通常の舞踊演目のごとき大喜利がつく。もちろんこれは仇討ちを終え、役者として生きていく覚悟を決めた雪之丞が舞う劇中劇のひとつであることは承知はしているものの、通し狂言最後の大喜利としての舞踊にしか見えず、せっかくのそれまでの流れが裏切られたようでいささか拍子抜けした。ここまでやったのだ。舞台奥のホリゾントに舞台から見える観客席を一面に映し出し、裏向きに踊る役者たちを背後から見せるくらいの、思い切った大喜利であってもよかったのではないだろうか。

 

 

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