黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

秀山祭九月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

ここ数年は、中村吉右衛門が後継者にその芸を残す場として機能している、九月恒例の秀山祭の夜の部。今年は仁左衛門も加わった重厚な座組で、ひさびさに古典作品ばかりがならんだ歌舞伎座を堪能できる。

 

『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」はなんども演じてきた吉右衛門で。7年ぶりとなる今月は、前回までとはまたひと味違う、いろいろなものを削ぎ落とした舞台である。

「お待ちなされ、しばらく」の声に続いて姿を現した松王丸は、いつもよりぐっとおさえた調子で春藤玄蕃に語る。詐病をリアルにいくといえばそれまでだが、そのぶん「助けて帰る」と声高く奥に聞かせる意識を徹底させて咳込みに自然につなげ、「面改めて戻してくりょう」は集まった村の百姓たちもおののく大音声。「机の数が一脚多い」も思わずさり気なく聞きながら、「なにを馬鹿な」はぐっと手強く戸浪をとどめる。サラリといっては要所で名調子を聞かせる、その自在な加減は見事と言うほかない。そして首実験においても、最小限の表情を見せる以外にほとんどハラを割ることなく、「よく打った」で引き締める。「相違ない」を源蔵にかけずに首を見据えたまま絞り出すように言うのもよい。

後半、黒紋付きに着換え再び登場する松王丸は、誰がやっても早くから泣きすぎるのが問題だが、ここでも今回の吉右衛門は絶妙だ。となりで女房が泣こうとも、みずからの不遇を嘆いていても、クドさや湿っぽさとは無縁の男らしい松王丸。「笑いましたか」のあまりに唐突な明るさに虚をつかれた。それが「健気なやつや九つで」でガラリと調子を変えて悲痛な叫びとなり、最大のクライマックスでこの松王丸はようやく泣くにいたる。みずからの子供のことで人前に涙を見せるなどもってのほかと言わんばかりの、古き時代のもののふの姿。それが最後の最後にすべての抑圧した想いを開放して泣いてしまう。本来このような役であろうと思わせる、素晴らしい松王丸であった。

幸四郎の源蔵は、花道の出からただならぬ思いつめた様子を見せ、本舞台を見てハッとイキひとつで歩みを速める具合が見事。児太郎演じる戸浪とともに、総じて外面的にならず、じっとハラでていねいに(ていねいすぎて間延びするところもあるとはいえ)芝居をしているのが好印象。この幸四郎の芝居であれば、「せまじきものは宮仕え」はセリフではなく竹本に言わせるという選択肢(故・富十郎などの例もあり)もありではないか。菊之助の千代は、あえておさえてていねいに演じているのが好印象。又五郎の春藤玄蕃。

昨年9月に復帰をはたした福助が園生の前を演じるが、いまだ右半身不随のために、登場した駕籠を家の裏にまわして奥から出るという趣向。幕切れは立ち上がることができないために座ったまま。それとバランスをとるために、松王丸と千代が引っ張りの見栄のあとに、もういちど座って頭を下げるという不思議な段取りで幕となる。

 

『勧進帳』は弁慶を仁左衛門と幸四郎が、富樫を幸四郎と錦之助が日替わりで演じるダブルキャスト。この日は幸四郎の弁慶に錦之助の富樫。

幸四郎が染五郎時代に初役で弁慶を演じたときには、ニン違いにもかかわらず、その細部まで研究し考えられた舞台に驚かされた。幸四郎を襲名してからも各地で上演を重ね、いわば歌舞伎座への凱旋公演にもなった今月は、よりその工夫が進化しているように思われる。例をあげるならば、富樫に義経の姿を見とがめられる場面、「判官殿に似た強力め」と絶体絶命のなかでつぶやき、そこから主君義経を金剛杖で打擲するまで。この場を乗り切るかの打開策を思いつく瞬間、主君に手をあげる覚悟をする瞬間、それらが過剰になりそうでならないギリギリのところで可視化されていく。「山伏問答」なども誰より明確にその内容が伝わってくるのは、たんにセリフがていねいというだけではなく、その「間」が抜群によいからだろう。延年の舞は高麗屋独特の滝流しつき。

幕外にひとり残り、富樫に一礼したあと天を仰ぐが、ここで誰にも拍手を「させなかった」のは立派。客席にむかって挨拶をしているのだと勘違いしている見物が多いが、あきらかに幸四郎は意地でも拍手をさせまいと意識している。当代幸四郎ならではの弁慶が、そういった挑戦によりつくられていくのは素晴らしいことだ。

しかしそれと同時に、声の使い方においても、いままでの盟友たちとは違った幸四郎の弁慶を追求してほしい。周知のとおり幸四郎の声帯はきわめてもろく、父親や叔父のような力強く響きわたる声を出すようにはできていない。今日(2日目)はダブルキャストの幸四郎にとっては初日だが、あのような声の出し方では千秋楽までとてももちはしまい。『勧進帳』はもともと能から輸入された松羽目物の演目だ。豪快に声を張りあげなくとも、幸四郎の声にあった様式的な表現が模索されても良いのではないだろうか。

錦之助の富樫は、いささか地味ではあるがセリフがていねいで明晰であり、格調高いもの。「山伏問答」の終わりに「そもそも」と言って数歩下がったときのやや見上げた顔の角度、「止まれとこそ」と太刀に手をかけ義経一行を呼び止めるかたちの美しさなど、ここぞというところで美しい絵になる富樫。「いまは疑い晴れ候」で見せる情の深さも印象に残る。

義経は孝太郎。いわゆる超越した存在としての主君ではなく、家来とともに苦しい旅をつづけるリアルな義経という方向に徹底している。花道の出において「各々のこころも出し難く」というセリフを言いながら、四天王へわずかに目線を傾ける具合。幕切れで深々と笠をかぶって花道を走り去るとき、ほんの一瞬だけ富樫へ頭を下げるその思い入れ。「判官御手」は奥側からでも下からでもなく、さっとシンプルに上から差し伸べるだけだが、そのきまったかたちの美しさは特筆ものであった。

 

『松浦の太鼓』は十七代目勘三郎のあとはほぼ吉右衛門の専売特許状態であった(仁左衛門と十八代目勘三郎、そして現・幸四郎がわずかにつとめている)松浦鎮信に、中村歌六が初役で挑む。

歌六の芝居のうまさはあらためて言うまでもなく、大名たる者の格を感じさせる立派なもの。だが、吉右衛門や仁左衛門のような愛嬌にいささか乏しく、一歩間違えればわがままなだけの凡人に見えかねない。

又五郎の大高源吾が素晴らしく、序幕での宝井其角とのやりとりのうまさ、大詰における「ご注進」もどきの語りのキレのよさ、どこをとってもきわめて完成度が高い。米吉のお縫は見た目は立派で美しいお女中ながら、甘ったるくセリフの語尾を上げる癖が耳につく。東蔵の宝井其角はぴったりのはまり役と思われるが、初役でセリフがまだあやしく残念。

 

 

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