黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『オイディプス』(シアターコクーン)

 

ギリシャ悲劇のなかでも、アリストテレスをはじめその最高峰としてあげることのおおいソフォクレスの『オイディプス王』。この傑作悲劇をイギリスの演出家マシュー・ダンスターがみずから翻案し、さまざまなジャンルの俳優をそろえて現代に問う舞台である。

 

客席に座ると、開演前からすでに舞台はオープンになっている。コンクリートむき出しのテーバイの王宮の一室。下手には厳重にロックされた外へ出る大きな扉。上手の出入口は神殿へつうじている。舞台奥には全面ガラス張りの部屋があり、監視カメラのモニターらしきものをチェックしている兵士が座っている。その部屋のまた奥には二階(国王夫妻の寝室)へ上がるための階段が見える。

このように、完全に現代に設定を移し替えられた舞台はきわめてシンプルで効果的だ。そこで繰り広げられるのは、原因不明の疫病と少子化によって滅びへの道を歩みつつある、ある軍事独裁国家のものがたりである。冒頭から見えている監視カメラに象徴されるように、権力者にとってはありとあらゆるものが可視化され、また監視されるものにとっては情報が遮断されている現代社会。「知っているということは、なんという恐ろしいことであろうか」とは作品に登場する予言者テイレシアスのセリフだ。なにかを「知る」ということがその人間に見えていた世界をまったく違ったものに変えてしまうというのは、『オイディプス王』にかぎらずおおくのギリシャ悲劇に共通するテーマのひとつであるが、ダンスター演出のこの舞台はそれを明確にしてくれるだろうとの期待が湧く。

預言者テイレシアスの言葉や、さまざまな登場人物が言及するアポロンの神託。希望をもとめ苦しむ国民を演じるコロスたちは、その声に身体を揺らしくねらせ反応する。なにも知らされることのない民衆が、さまざまなメディアからの情報に一喜一憂し、その欲望さえもコントロールされるさまを表現している。

 

しかし、である。そのコンセプトはきわめて面白く期待させるものではあるが、その舞台でわたしたちが目にするいくつかの演出家の仕事の痕跡は、いささか問題だと言わざるを得ない。

ひとつめは、その安易な政治性である。舞台がはじまると、けたたましい警報とともに下手の大きなドアが開き、コロスたちがそとから入ってくる。みな全身を防護服で身をつつみ、兵士によってひとりひとり徹底して除染される。もちろん原作においてもテーバイの街には「世にも恐ろしい疫病」がはびこっているが、彼らの姿を見れば東日本大震災時の原発事故をみるものに思い起こさせようとしていることはあきらかだ。アイディアそのものをけっしてセンスがないと言うつもりはない。しかしそれらのことが、この骨太なテーマを持つこのドラマを、いっきに浅薄かつありふれた政権批判のものがたりに変質させてしまう面も否めない。オイディプス(市川海老蔵)がカメラをとおして国民に向かって空虚な言葉を語りかける、大画面に映し出された放送の「いかにもさ」は、もはや失笑もののコントである。

ふたつめは、オイディプスの人物設定である。『オイディプス王』におけるオイディプスは、悪人ではないし独裁者でもない。むしろ、人々を悩ませるスフィンクスを退治し、先王ライオスの突然の死に混乱する国をまとめて見事に治めた、智勇に優れた英雄である。ソフォクレスの悲劇がいまなお圧倒的に観るものに迫ってくるのは、悪人でもなく、いやむしろ悪しき予言から逃れようとした人間が、みずからの意思と関係なく恐ろしい行為を犯してしまうという不条理をえがいているからである。そして「知らなかった」ものが「知る」ことによって世界が変質してしまうという悲劇が、愚かな人間の限界をまざまざと見せつけるからである。しかし、ダンスターの演出では、あきらかにオイディプスははじめから民衆を欺く暴君、あるいは少なくとも民衆の暮らしに本気に向き合うことのない暗愚な王である。また、オイディプスが破滅したのちにテーバイを支配することになるクレオン(高橋和也)も、すくなくとも『オイディプス王』のなかでは理知的で公平な人物としてえがかれているが、あえてセリフのキモになる部分を改変してまで、無慈悲にオイディプスを追放し、その後にやはり君臨するあらたな独裁者と解釈している。そこまでやるなら、いっそのこと「オイディプスにまつわる予言と証言はすべて彼を追い落とすための虚構であった」くらいの批評性があれば面白かったのかもしれないが。権力がたおされても、またそれにかわる権力が民衆を騙しつづけるという、政治的なアイディアが先行するからこその設定だが、それはもはやソフォクレスの世界とはまったく正反対なものだ。それが説得力をもつのであればなんら問題ないが、既視感のあるものにしか見えない。残念なことにわたしたちは、もはや隠しようのないこの世界のそういった現実をいまさら教えられなくても「知っている」のだ。まさに「知っているということは、なんという恐ろしいことであろうか」である。

もうひとつ、これは『オイディプス王』の原作におけるわかりにくさに起因する問題がある。自分の無罪を信じて疑わないオイディプスが妻イオカステ(黒木瞳)の話を聞いているうち、先王を殺した犯人とはもしかしたら自分ではないかと疑いをいだく。しだいにそのおそろしい罪の全容が明らかになっていくのであるが、前述のイオカステの語りをはじめに聞いた時点で、すべての事実がつながってわかりそうなものなのだが、登場人物たちは妙に「にぶく」なかなか理解がすすまない。いささか無理のある展開なのだが、これは精神分析的にはいろいろ解釈することができ、それによってその矛盾はより説得力のあるドラマをつくりだすことができると思うのだが、演出家はそれについてはとくに対処をしているように見えない。作品のコンセプトや設定を変えるためには大胆にセリフを改変するのにたいし、戯曲を読めば誰でも気がつくこの部分の欠点については本質的にはほとんど手が加えられていないし、演者によってそれがカヴァーされているようにも見えなかった。

 

主役オイディプスの市川海老蔵は、さきにのべたような演出上の人物設定のなかにあって、みずからの出生の秘密におびえていく芝居はいささか上滑りしているところもあるが、現代的な焦燥感を身にまとった独裁者をうまく演じている。圧巻は決定的に真実が明らかになった瞬間の無言の驚愕の姿。ものいわずしてハラで語る歌舞伎役者ならではのうまさである。長冗になりかねないラストのモノローグを最後までもたせたのも、その異様で過剰なまでの海老蔵のエネルギーのおかげだろう。

コロスの長を演じる森山未來は、身体の饒舌さが圧巻。その存在の不気味さが、ラストシーンへうまくつながっている。民衆の代表であった彼が、なぜ最後にあの席に座っているのか。その演出にリアリティをあたえているのはさすがである。

コリントスからの使者(当公演ではパイロット)は谷村美月。よくとおる声とよけいなもののない芝居が、ひときわ目をひく。

 

 

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