黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督)

 

映画のはじまりからおわりにいたるまで、救いようのない悲しみに満ちている。ホアキン・フェニックス演じるジョーカーこと道化師アーサーの異様なまでのリアリティある演技に、かたときもスクリーンから眼をはなすことができない。

 

アーサーはまわりからの無理解に苦しみながら生きている。コメディアンとしてまったく評価されないことにくわえ、貧困にあえぐなか行政は福祉を打ち切り相談所さえも閉鎖される。あげくのはてには道化仕事の元締めには「存在そのものが気味悪い」とまでいわれてしまう。誰からも求められていない、誰にも受け入れてもらえないという閉塞した状況が、アーサーを追い詰めその精神をむしばんでいく。

これまで高く評価されたジョーカー役者といえば、ヒース・レジャーの名前があげられるだろう。『ダークナイト』におけるそのジョーカー像は、徹底して無根拠な「悪」、つまり善や正義の対向概念としてではない純粋な「悪」を象徴する存在としてえがかれていた。勧善懲悪なものがたりにおける悪役としての立ち位置を根底から覆し、それにいどむバットマンのアイデンティティをも相対化させるという画期的なものであった。いくら因果関係の網目をたどって遡ってみても、そこにはなんの根拠もないという不気味さ。そこには「悪」の意味などどこにもない。

それとは反対に、本作は徹底して意味に埋めつくされている。たとえば、なぜアーサーが人を殺したのかという理由は明白であり、その手段をどのように入手するにいたったのかも明確に示されている。彼の現在の境遇にいたった過去も、芸人としての評価が得られない理由も、なぜジョーカーがあのような容貌をしているのかも、そもそもなぜ「ジョーカー」と名乗るようになったかということも、すべてが有意味につながっている。そのわかりやすいリアリティこそが見るものの共感(憐れみといってもよいだろう)を呼び起こす。ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンを前にしてテレビのショーの本番で語りだすアーサーの独白には、他人から認められない経験を持つすべての観客が心を動かされることだろう。そこには「承認欲求」にあえぐ現代人がいやというほど知っている、ある感情があるからである。ヒース・レジャーのジョーカーはわたしたちをたじろがせるが、ホアキン・フェニックスのジョーカーはわたしたちを共感させる。そういう意味においては、このジョーカーはその設定とはうらはらに「おおくの他人からおおいに理解される」ジョーカーなのだ。

(ちなみにマレー・フランクリンにあこがれるアーサーの姿には、若き日のデ・ニーロが演じた『キング・オブ・コメディ』のルパート・パプキンのそれを重ねずにはいられない)

 

しかし、ホアキンの名演や、撮影や音響にいたるまで徹底して作り込まれた演出の見事さへの評価とはうらはらに、この作品はおおきな問題をはらんでいるといわざるを得ない。

アーサーはなかば正気を失った介護を要する母親との貧しいふたり暮らしである。突如として発せられる彼のけたたましい笑い声は、その精神疾患ゆえのものと説明される。また映画がすすむにつれあきらかにされるのは、アーサーが幼少時に受けた両親からの育児放棄や虐待である。しかも実の親子と信じていたはずが、自分は養子なのだと知らされる。なんだろうか、この既視感たっぷりのエピソードは。母親から実の父親だと明かされた人物に会いに行き、彼からそのような事実はないと突き放されるアーサーは、それをきっかけに破滅的な凶行へと走り出す。規範たる父権的なものを喪失することで精神と行動の秩序を崩壊させるという、精神分析家の講義にでも登場しそうな事例のような展開もある。

これでよいのだろうか。貧困や、精神疾患や、幼いころの虐待が「悪」を生む。いまの時代にあって、そのようなストーリーが許されてよいのだろうか。安易だという言葉で済ますことのできない、ある種の「危うさ」をそこに感じずにはいられない。その恐ろしさに作り手が無自覚なのか、それともそのようなわかりやすい前時代的なものがたりを世の中が求めているのか。本作の大ヒットを思うとき、そこに映画のラストシーンを重ねざるを得ない。熱狂的な共感は、善悪の価値観のむこうがわ「これでいいのだ」と叫ぶだろう。しかしあえて問われなければならない。「それでいいのか」と。

 

※以下ネタバレと考えられる結末についての記述を含みます。

 

だが、ラストシーンはそんなことさえすべて吹き飛ばしかねない、あるひとつの解釈の可能性を残しておわる。この作品が影響を受けているとされる「ある作品」もまた、やはりその可能性をにおわせるものであったように。そうだとすれば、映画の評価が根底から覆りかねないものだ。

それは、このものがたりそれ自体が、ジョーカーの作り話であったという解釈である。本作はジョーカーが精神病院のなかでカウンセラーに話をしているシーンで締めくくられるが、そこでジョーカーが語った内容こそ、この悲愴で壮大なジョーカー誕生秘話であったかもしれないのだ。(序盤にやはり登場するカウンセラーの扱いや、銃の装弾数の矛盾など、それを疑わずにはいられないポイントも少なからず用意されている)

ジョーカー自身がみずからの現状に納得の行く原因を求めたゆえの虚構ということも考えられるが、まわりが求めるままに彼が「もの騙たり」した結果なのだとしたら、なんとも皮肉なものである。なんにでも原因があるはずだとかたく信じ、しかもそれを自分ではないものに求めたがる、現代の病理とも言えるその傾向を、ジョーカーはあざ笑っているかもしれないのだ。「おまえたちが求めているのは、こういう社会の矛盾が生んだ哀れな男のものがたりなんだろう」と。

映画だけではなく、すべてのフィクションたるジャンルへの批評的な問いかけをはらんだ、なんとも痛快な傑作なのかもしれない。

 

 

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