黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

吉例顔見世大歌舞伎『髪結新三』(歌舞伎座)

歌舞伎座の昼の部は都合により『髪結新三』のみを観る。これが、なかなか見応えあって面白い。

 

菊五郎が新三を演じるのは久しぶり。この数年のあいだに菊五郎劇団の新三を受け継いでいくであろう松緑や菊之助も演じたが、やはり当代菊五郎のそれは別格である。もちろん年齢とともに足腰の衰えは隠せず、その足のはこびひとつとってもスッキリと粋にきまった昔とおなじではない。しかし、これまでの菊五郎の新三にはなかった悪の凄みとでもいうべきものがそこにはあり、作品世界に奥行きが出た。

白子屋店先において、髪を撫でつけながら忠七をお熊誘拐へとそそのかす場面。はじめは菊五郎にしてはテンポが悪いと思われたのだが、忠七を利用してお熊を連れ出そうという新三の本心が、なんとも言えないその間に見え隠れして、次の場への見事な布石になっている。もともと忠七の心のどこかに潜んでいたであろう欲望を目覚めさせる、悪魔のささやきとでもいうべき言葉のリアリティ。前回までの菊五郎とはおなじセリフのはずなのにまるで違って聞こえた。

永代橋の場。忠七が買ったはずの傘をいつのまにか自分のものだと言い、しまいにはお熊は自分のイロだから連れ出したのだから忠七は関係ないとはねつける新三。あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにする、呪術的と言ってもよいその言葉が満ちていく不気味さ、面白さは、これまでの誰の『髪結新三』にもなかったものだ。そのうえで鳴り響く「これ、よく聞けよ」との有名な長ゼリフが圧倒的なのは言うまでもない。下駄が忠七を踏みつけているように、菊五郎のセリフが歌舞伎座の舞台と客席を支配している。

今回の菊五郎には、この悪の凄みにあふれている。新三内にて源七をやりこめる手強さもよい。だからこそ、後半になって家主にさんざんやり込められる喜劇的な場面が生きる。菊五郎にとっては年齢的にもしかしたら最後の新三かもしれないが、『髪結新三』という作品がまだまだ可能性に満ちていることを教えられた思いである。

 

左團次の家主長兵衛が傑作。これだけ笑いをとりながら、まったく観客に媚びていない。あくまで自然体だが、それでいていたるところに見事な演劇的計算がある。

「鰹は半分もらったよ」のくだりは誰がやっても笑いがおきるが、今回の左團次はなんども繰り返されるそのセリフの言い方と間を絶妙に変えることで、より本格な笑いを作りだしている。左團次は「鰹は半分…」をはじめは客席にもかすかに聞こえるようにしか言わない。だから、新三もそばに控える勝奴もその言葉の意味を重要視しない。それがだんだんと意味を持たせて繰り返されるうち、しだいに長兵衛の企みが明らかになる。おおくの長兵衛がそうするように、はじめから露骨に笑いを取りに行けば受けるだろうが、それでは長兵衛の意図に気がつかない新三が間抜けに見えてしまう。この長兵衛の(そして左團次の)たくみな計算は、主役を貶めずにおおきな笑いを生むためにきわめて重要な役割をはたしている。

團蔵演じる源七はさらりとしてはいるが、セリフのうまさで新三とのやりとりもすきがない。ただし、いいさかひねくれた小悪党に見えるのが疑問。示談の解決金として十両のはした金を提示して新三に突き返されるが、もしかしてこの源七は白子屋から預かった金の大半を懐へ入れたのではないかと疑いたくなるような、人物の卑しさが見えるのである。それはそれでひとつの解釈かもしれないが、現行演出ではキリ場となる閻魔堂橋で新三と互角にやり合うわけで、それだけの強さと格がなければならないだろう。

忠七の時蔵は、さすがの手にいった安定感。ことに永代橋の場では、時蔵のていねいでリアルな芝居があるからこそ、前述の菊五郎の怪演が成立する。

お熊を演じる梅枝は、この役がこれほど見せ場にあふれたものだったかと思うほど見事なもの。白子屋店先では、真面目な忠七もなるほど道を踏み外すだろうと思わせる色気を見せる。しかも媚ではなく、技術でそれを見せるところが梅枝らしいところ。のちに監禁されていた戸棚から助け出されるとき、そっと乱れた襟元を直すそのさりげない手の動きが、見るものにさまざまなことを想像させる。黄八丈の娘役の典型をまもりながら、役として深みをもたせることに成功している。

 

幕開きの白子屋玄関先の若い衆から、大詰の蕎麦屋と按摩のやりとりにいたるまで、端役にいたるまでセリフが明確であることも今回の『髪結新三』の収穫。このようにして、菊五郎の誇るアンサンブルが次世代に受け継がれていくのだろうと思われた。

 

 

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