黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

寿初春大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

二〇二〇年の幕開けとなる一月の歌舞伎座の夜の部を観る。このところの新春の歌舞伎座は、わが子の首を切り落として身代わりにするなどという正月らしからぬ演目が並ぶことが続いたが、今年ははなやかな演目がおおい。

 

『義経腰越状』は松本白鸚の五斗兵衛。まさに正月にふさわしい他愛のない歌舞伎味あふれたこの一幕。

白鸚はこの数年、はじめてや久しぶりの役をてがけることがおおいが、この五斗兵衛も初役。年齢を感じさせない身体のキレと間のうまさで、ある意味むずかしいこの役をうまく演じて笑わせる。しかし、恥をかかせようとの策略によって大杯で酒を呑んで酔いつぶされても、白鸚の真面目さがどうしてもにじみでて、この演目のもつおおらかで豪快な面白さにはなりきらない。もちろん、自分を引き立ててくれた泉三郎と目配せしあうことからもわかるように、五斗兵衛は策略とわかったうえで「あえて」酔っている。しかしそれでも好きな酒を好きなだけ呑んで、楽しんでいることもまた事実なのだ。その明るさは間違いなく五斗兵衛のひとつの顔であるはずだろう。これまでこの役を演じてきた先代松緑、富十郎、團十郎といった「陽」の役者たちと白鸚との芸風の違いによる違和感は最後まで気になった。

亀井六郎は猿之助。わずかの出番ながらきっちりと演じて舞台をしめる。義経は芝翫。

 

『連獅子』は猿之助と團子。ここ数年は「またか」と思うほど頻繁に上演され、いささか食傷気味のこの演目。しかし今月の猿之助は、舞踊劇としての面白さをきちんと見せてさすがである。

猿之助のそのあざやかな身体のキレに目が覚める。團子はまだむろん猿之助におよぶべくもないが、細かいところまで折り目正しくきちんと踊ろうという姿勢に好感が持てる。積極的に猿之助にくらいつこうとするそのさまは、まさに作品世界の親獅子と子獅子に重なる。この前場がなかなかまれにみる緊張感あるドラマになっているのが見もの。後ジテも、澤瀉屋一流の派手な演出のなか、最近よくある見世物小屋のショウのような毛振りとは一線を画し、あくまで獅子のドラマがそこにあるのがよい。

間狂言は男女蔵と福之助。松羽目ものらしい格はないが、さらりと現代的で、かけあうテンポ感もよく、コントを見ているような面白さがありこれはこれで楽しめた。

 

『鰯売恋曳網』は十七世目勘三郎と六世歌右衛門、十八世勘三郎と当代玉三郎の名コンビによって繰り返し上演された、いわば歌舞伎的ファンタジー。勘九郎と七之助によってこの演目が受け継がれたのは二〇一四年の十月。五年ぶりに東京で観ることのできるそれが、どのように熟成したかが見もの。

猿源氏の勘九郎は、亡父・勘三郎をこまかなところまで写して演じるのは前回と同様だが、逆に言えばその模倣から脱していない。勘九郎は十八世勘三郎とはもって生まれた身体も、声も、ニンもじつはまったく異なっているように思われるのだが、勘三郎亡きあとその意図的な模倣がいっそう加速した。この猿源氏も、「えぇ」やら「あはぁ」やら、ちょっとした仕草や捨て台詞まで器用に真似ているが、それがかえってリズムとテンポを悪くしている。あえて言えば、目の前の共演者である七之助や東蔵と芝居をしていない(つまり亡き父親の記憶と芝居をしている)ように見える。観客にはおおいにうけているが、もういちどこの現代的なシンプルさと古風な趣向がないまぜになった特異な戯曲そのものから、勘九郎独自の猿源氏を見つけてほしいと願ってやまない。猿源氏が苦し紛れにかたる「魚づくしの戦物語」のうまさはじつに本格であり、そのあたりにヒントがあるように思う。

目の前の役者と芝居をしていないと思わせるのは、七之助が玉三郎とも前回の七之助自身ともちがったあたらしい蛍火をつくりだしいるからということもあるだろう。五年前は玉三郎の影響が色濃かったが、今月はより現代的でアグレッシブな蛍火になっているのが面白い。幕切れになるにしたがって、完全に舞台を支配しているのは七之助である。

 海老名なあみだぶつを初役で中村東蔵が演じる。八十歳を超す人間国宝に今年もまた負担をかけるのかという心配をよそに、やや小声で地味ではあるが愛嬌ある好演。しばらく通わなかった色街へでかけていくのに「足が覚えているわい」というだけのことはある、ひょうひょうとした軽さが心地よい。揚屋の亭主は市川門之助。いかにも京の色街の男らしいふわりとした色気がぴったり。

 

 

f:id:kuroirokuro:20200102131306j:plain