黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

寿初春大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

新春の歌舞伎座昼の部。

 

はなやかな『醍醐の花見』の一幕からはじまる。

豊臣秀吉は中村梅玉。秀吉らしい鷹揚かつもっさりとした雰囲気をよく出している。魁春演じる北政所と連れ舞いになっても、その性根のまま踊るのがよく、これぞ役者の踊りというべき余裕が感じられる。
石田三成に勘九郎、大野治房に鷹之助、新左衛門に種之助。七之助演じる智仁親王北の方のうまさが印象的。

 

『奥州安達原』は平安時代の奥州を舞台に、源義家に滅ぼされた安倍一族とそれにまつわるひとびとをえがいた壮大な絵巻。女形の難役・袖萩と豪快な貞任の二役を兼ねて演じられることもおおいが、やはり袖萩はうまい女形でじっくりと観たいもの。

二度目となる雀右衛門の袖萩は、花道の出からして古風で本格。この派手さのない味わいがなにより袖萩らしい。実の親から突き放され、娘のおきみが薄着になっているのに気づいてから、「わしがような不孝なものが」の嘆きにいたるクライマックスはなかなか感動的。ただ、肝心の見せ場であるはずの祭文は、三味線の手に気を取られて落ち着かないのが残念。演奏することよりまずは演じる心持ちを忘れるなかれ、ということがよく言われるが、うまく演奏してこそ、そのむこう側におのずとリリシズムか立ちあがる。『阿古屋』などでもおなじことが言えるが、観客が三味線に気を取られないためには、演者が「役者が演奏している」という事実を忘れさせるくらいうまく弾くのがいちばんだろう。
袖萩の母・浜夕を演じる笑三郎がなかなか充実して好演。老女役ながらことさら老けさせすぎず、芝居のうまさでつくりあげていることで、ドラマがきわめて明確になる。親子の対面を許されない娘を見ての「いやサア、やっぱり犬でござんした」というそのセリフが、なにも派手な思い入れがなくとも、観るものにぐっとささる。
安倍貞任は中村芝翫。その顔、豪快にきまったかたちには浮世絵のようで、この古風な作品にぴったり。ただ、いつものことながらセリフがとっちらかり、せっかくのぶっかえりも古怪さが半減して残念。もって生まれた声はしかたがないが、そのつかい方は工夫しだいでよりよくなるはずだ。
安倍宗任を演じるのは勘九郎。夜の部の猿源氏とはうってかわって、そのキレのよい身体、のびやかな声をいかして爽快な熱演。古風に折り目正しくありながら、みなぎる気で観るものを圧倒するこのちからこそ、勘九郎の本領ではないだろうか。

 

松羽目ものの舞踊劇『素襖落』。けっして踊りがうまいわけではない吉右衛門が演じる太郎冠者の良さはふたつ。ひとつは吉右衛門のもつ愛嬌あふれる芸風と爽やかな口跡がこの作品の明るさにふさわしいこと。もうひとつは劇中劇ともいうべき「扇の的」の戦物語がじつに面白いことである。ことに那須与一がいざ的を射んとするくだりは、熊谷や実盛の「物語」に匹敵するかのようなリアリティある世界がひろがって面白い。

姫御料を演じる雀右衛門は、クールで現代的な美しさをたたえる最近の姫御料とはことなり、やわらかい古典的な美しさが魅力。

又五郎の大名をはじめとして、種之助、鷹之資、吉之丞と吉右衛門劇団の若手中堅がまわりをかためる。いずれも折り目正しいセリフのアンサンブルで、松葉目ものの格を感じさせて好印象。

 

『河内山』はいつもは上演される上州屋の場がカットされ、いきなり松江出雲守の屋敷の広間から。あまりに頻繁にかかる作品ゆえに、ことの発端となる場がなくても話はわかるといえばわかるが、なんともさびしい。

白鸚の河内山はいままでなんども観てきたが、ひとことで言えば今回がもっとも地味。もちろん、愛嬌をふりまく吉右衛門系の型は白鸚とは芸風がことなるため、より硬派な役作りのほうがあう。しかし、ここまでリアルで地味すぎると、松江侯を追い詰めていくセリフの魅力は失われてしまう。御家人とはいえ市井の暮らしにつうじる悪党・河内山が、身分が高い殿様をやりこめるからこそ面白いわけで、マフィアのボスのごとき仏頂面の悪党がはなから勝つたたかいを仕掛けるのでは話が変わってしまう。大詰の「玄関先」での正体を明かして以降をいかすための工夫とも思ったが、なんのことはない、陰気な御使い僧が陰気なお数寄屋坊主になっただけで終わった。幕切れでの「バカめ」の大音声がなりひびくが、それだけで溜飲は下がらず。

高木小左衛門は安定の中村歌六。もはやこのひとをおいてほかにないという一級品。松江出雲守の中村芝翫は短気な殿様かニンにあっていて、今月いちばんの面白さ。

 

 

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