黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

新春浅草歌舞伎夜の部(浅草公会堂)

 

若手の研鑽の場という当初の思惑をはるかにこえて、近年ではチケットもなかなか入手しづらくなった新春の浅草公会堂。

本来であれば「まだ早かろう」という役々を、勉強会としてではなく、ひと月のあいだ商業ベースに乗って演じられるというのは、若い役者にとってきわめて貴重な場であり、どうじに観るものの固定概念を崩してくれる可能性がある場でもある。

 

『絵本太閤記』の「尼ケ崎閑居の場」は、この重厚な作品には似つかわしくないほど軽量級。上手いかどうかということではなく、義太夫狂言らしいこってりとしたのがあまり感じられない。

中村米吉が初菊を演じるのは、昨年正月の歌舞伎座以来の三度目。吉右衛門をはじめとする大一座での初役から一年たってどれくらい進化したかと期待したが、さすがにこなれてはいるもののまるで町娘のようにサラサラしている。中村梅花演じる皐月も「めでたい、めでたい」が、祝言の祝いの盃がそのままこの世の別れの盃になるというダブルミーニングがきいていて上手いが、全体に世話物の老母めいている。

そんななかで、中村歌昇が初役で演じる武智光秀がなかなか奮闘。光秀にしては小柄だし、初日から一週間たって声もそうとう枯らしてしまっているが、笠をおろして現れた顔に隈がよくはえて立派な絵になっている。セリフもよく考えられて立体的であり、ようやく義太夫狂言らしさが感じられた。飛び六歩や松の枝を掲げての見得など、若い役者ならではのよい光秀。

坂東新悟の操も意外なほどと言っては失礼だが、時代物らしいていねいさと強さがあって好演。橋之助の佐藤正清もきっぱりしていてよい。真柴久吉は錦之助。

 

『仮名手本忠臣蔵』の七段目。これが予想もしなかった大収穫で、たいへんに感動的な一幕であった。坂東巳之助の平右衛門と米吉のお軽は、教わったことをしっかりやれているとか、若手ならではの熱演とか、そのようなレヴェルをはるかに超えて画期的に素晴らしい芝居をつくりあげている。

巳之助ははじめの出からセリフがよく、カンの声をうまく使って響かせる。この平右衛門は第一に敵討ちの一党に加えてもらいたいという性根がつねにあり、ついで由良之助への信頼と忠心がはっきりとある。由良之助へ枕をあてがい布団を掛けてやるその仕草に自然に気持ちがこもり、かつ願い文をなんとか読んでもらおうという喜劇的になりがちな芝居が不思議と感動を呼ぶ。

妹・お軽に両親や勘平のようすを尋ねられ、その悲劇的な事実をごまかしながらの受け答えは、じつによく組み立てられ(これには対する米吉のお軽とのアンサンブルも絶妙によい)、きわめてドラマティックなもの。見事に勘平が腹を切って死んでしまったという事実を聞かされたお軽を介抱する段取りも、妙な入れごとを極力なくしてシンプルにしたことが成功している。

米吉のお軽は従来のこの役のイメージよりは若く軽いが、よく考えれば彼女は新婚まもなく遊郭へ売られた若き人妻。芝居がしっかりと組み立てられているために、その現代的なリアリティが説得力をもっている。深く考えることもなく密書を見てしまい、そのことの重大性にも気がつかない、それだからこそ引き立つ彼女の人生の悲劇性。なかなか新鮮なお軽だった。

米吉の工夫のよさは随所にあるが、もっともハッとさせられたのは、兄・平右衛門から夫・勘平のことを聞かされるくだり。「アノ、勘平さんは」と尋ねるお軽に、平右衛門が「アノ、勘平は……やっぱり勘平だ」とごまかす。それを聞いてお軽が「よい女房さんでも持たしゃんしたかいなぁ」と返すのだが、歌右衛門だろうが玉三郎だろうが、たいていのお軽はこのセリフを笑いながら冗談のように言う。しかし廓の客と戯言をかわしているわけでもあるまいに、勘平ひとすじの、しかも夫の身になにかあったと心配しているお軽が、そのような軽口をたたくのは不自然だ。米吉はこのセリフを、うつむきなかば嘆くようにようにつぶやく。その悲しそうなお軽のセリフに、ああ、この女は夫から離れて廓で暮らしながら、そんなことまで想像しながら日々を送っていたのだと、役のむこう側に世界がひろがるのを感じた。そしてその悲観的な予想さえもうわまわる、つきつけられた絶望。このようなお軽はいままで見たことがなかった。クドキはさすがに先人たちとくらべればもっとみがきこまれたらと思うところもあるが、今後再演を重ねていくなかでよくなっていくのだろう。

巳之助と米吉の功績には、花道と本舞台のあいだで繰り広げられる「来る/来ない」の入れごとをアップデートしたこともあげられるだろう。刀を振りかざしてこっちへ来いという兄。そんな怖い顔をしていてはそっちへは行かぬという妹。この悲劇のなかに突如として差し込まれた入れごと(文楽の本文には当然存在せず、歌舞伎だけの挿入シーン)は誰がやってもダレる。仁左衛門と玉三郎がその愛嬌と色気でなんとかみせて乗り切るのが例外なくらいだが、巳之助と米吉はこれを演劇としてきちんと成立させている。段取りのいくつかを整理して簡略化したこともあるし、なによりやっている本人たちが真剣で緊張感をたもっているのがよい。そろそろ誰かがカットしないものかと思っていたが、これだけドラマの流れのなかで説得力あるものになるなら面白い。このふたりが手垢のついた「忠臣蔵七段目」から掘りおこした魅力は少なくない。

大星由良之助は尾上松也。セリフはきわめて明晰。しかし「言語明瞭、意味不明瞭」とはよく言ったもので、松也がわかりやすくしようとすればするほど、残念なことになっている。たとえば三人侍の来訪を受けて酔いどれる由良之助。もちろん由良之助は敵を欺くために酔っているのだが、松也はそのハラを見せすぎる。つまり、「敵を欺くためにわざと酔っている」ことを見せる。二度目の出で、密書を読むタイミングをはかりながらあたりをうかがうのも、はじめからまるで盗賊のように不審の目で見回されては「九太にはもう往なれたそうな」がきかなくなってしまう。秘密を知られたお軽を見受けしてひそかに殺そうと決心する場面も、その本心をチラチラあきらかにしてしまうのが困りもの。そこはハラを見せずに芝居をし、すぐあとに扇で顔を隠すその一瞬ですべてを観客にわからせることこそが歌舞伎の表現。そこがぶれては役と作品の根本的な部分がゆらいでしまう。そのほか、セリフの切れ目がおかしかったり、気のかわる間が違っていたり、ちょっとしたことでこの作品世界の緻密さが崩れてしまうのが残念。幕切れの「獅子身中の虫」などで亡き二代目尾上松緑を写したと思わせるセリフ術も垣間見せるウデがあるだけに、ぜひもういちど洗いなおして正当に演じてほしい。

ベテラン大谷桂三が斧九太夫。さらりとしたアクのない九太夫に物足りなさは感じるが、亡き主君の命日逮夜にタコの足を食べる由良之助を見て、一抹の疑いを残すのがうまい。隠れ見ていた力弥が持ってきた密書のことが頭から離れない、だからこそ居残って床下からようすを伺おうという、そのハラがおのずとわかって見事。力弥は橋之助。『絵本太閤記』の正清のすぐあとに、うってかわった若侍が新鮮でうまい。

 

それにしても、この浅草歌舞伎のよいところは、二演目の組み合わせで、三時間程度で観終わることができるところ。昼の部と夜の部を連続で観ることも可能だし、昼夜のあいだの一時間で周辺の浅草のお店で遅いランチや散策も楽しめるので地域も潤う。

歌舞伎座が改装しているころ、新橋演舞場で一時期公演時間の短縮がはかられたが、あっというまに従来どおりのかたちに戻ってしまった。まもなく発表になる市川團十郎襲名披露公演は三部制をとるようだが、もし今後それがつづくことになれば、それは興行側の収益上のメリットだけでなく、あらたな観客層を掘り起こす可能性をはらんでいるのかもしれない。

 

 

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