黒井緑朗のひとりがたり

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岡田利規「『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊」

 

本来であればこの6月にKAAT神奈川芸術劇場で上演される予定であった『未練の幽霊と怪物』の初演は、例にもれず新型コロナウイルスの影響により公演中止になった。それにともない上演される機会を失ったはずのこの新作だが、このたび2日間だけの限定でYouTube上でリモート上演された。その初日(というべきかどうか)の27日の配信を観た。

 

上演(配信)されたのは『挫波(ザハ)』と『敦賀(もんじゅ)』という2作品。いずれも(途中まで)という記載があるとおり部分的に上演された。

演技は個々の役者ごとに収録されたものを合わせたのではなく、オンラインでおたがいの演技・演奏を見聞きしながらのリアルタイムでの上演であったようだ。

 

「幽霊」という言葉にはここでは二重の意味がある。

ひとつは、一般的なイメージどおり「未練を残してこの世を去ったものの霊」というもの。もうひとつは「その場にないはずのものが現れ出るという事象」のことだ。批評家で小説家の佐々木敦は、演劇とは「ここにいないひと(たち)を、ここにいるひと(たち)が、いることにする」ことだと定義しているが、その意味で演劇とは本来、幽霊的なものだといえる。

今回の2つの作品は、いずれも「あったはずの物がなく、なかったはずの物がかわりにある」現象をまえに「いるはずのない者が現れ出て」語るというものだ。

基本的には夢幻能の形式と表現方法を踏襲し、その現代的な表現を追求した作品で、登場人物も「シテ」「ワキ」「アイ」と記され、彼らの語るスタイルもほぼ能のそれをなぞっているが、この夢幻能こそまさに二重の意味で幽霊的な現象であることは言うまでもない。そして「上演されるはずであった作品が上演されず、上演できなかったその作品をインターネット上でヴァーチャルに上演する」という、今回の試みそのものも、また幽霊的であると言えるだろう。

 

その上演にあたってもちいられたしかけは、そうきたかというなかなかに凝ったもの。開演前の画面に映っているのは、ちいさなライトスタンドと卓上スピーカーの置かれた四角いテーブル。そこには情報から吊り下げられたオブジェが映り込んでいる。シンプルな木目のテーブルは、まさに能舞台を思わせるもの。

それぞれの作品の上演がはじまると、テーブルの上にちいさな(おそらくは高さ20センチ程度)白いパネルが登場する人物の数だけ配置され、そこにプロジェクターによって別会場にいる俳優と演奏者を投影し、わたしたちはそれらのちいさなスクリーンのなかの演技や演奏を、テーブルというひとつの場のなかにどうじに観るわけである。

 

『挫波(ザハ)』は、東京オリンピックのために建て替えられた新国立競技場の、破棄された当初の設計案をつくった設計士ザハ・ハディッドをえがいたもの。建設中の新国立競技場を見に来た観光客(ワキ)が異様な雰囲気を纏った人物(シテ)に出会う。

完成間近の競技場をまえに「この空にかかっているはずだったアーチ。目の前にひろがっているはずだった、けれども潰えた」と語りだすシテは、採用されなかった当初案の設計者ザハの幽霊だ(じっさいにザハは失意のうちに2016年に亡くなっている)。「そこに建っているはずのものが、そこにないこと」という未練と、スケープゴートにされた恨みを語る。
アイの狂言語りをはさんだのち、ワキが「建つはずだったものが、やがて顕現する」とつぶやいたところで終わる。おそらくはこのあと後シテの出になって、正体を現したザハの霊が語るのだろうが、そこは今回はカットされている。
 
もうひとつの『敦賀(もんじゅ)』は福井県をドライブしている観光客(ワキ)が白木海岸へやってくると、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉作業が進行中。「夏の気配はとうに消えている」と「次第」のようにくりかえされる言葉が印象的。シテがあらわれ「潰えることのないちからの流れ」が途絶えてしまうこと、夢にみちた未来を託されながら悪の象徴のように捨て去られる「もんじゅ」の悲しい運命をなげく。
「もんじゅ」のことを「あの子」と語るが、地謡の「われこそはもんじゅの化身」ということばによればシテはやはり「もんじゅ」自身なのかもしれないが、むしろ「もんじゅ」に希望をたくしたかつての日本人の集合意識なのかもしれない。だとすれば、「もんじゅ」計画を批判する現代の日本人の集合意識の象徴がワキであり、その対比は面白い。
こちらの作品もアイ語りのあと、後シテの登場を待たずに終わる。

 

はじめにのべたように、上演されなかった作品が、リモート演劇にかたちをかえてまさに幽霊のようにたちあがるさまは、偶然ではあれども作品内容とかさなり、さまざまに考えさせる面白い試みであった。そして、埋もれるはずであった去りし者の声をひろいあげるという、演劇のもつ可能性をじゅんぶんに感じさせる作品だと思われた。(だからこそ舞台での完全上演を観てみたい)

しかし、気になる点もいくつか感じた。あれほど舞台空間を支配する森山未來の圧倒的な身体表現が、二重に画面をとおしたときにじつに「よそごと」のように思われてしまうなどのもったいなさ。制約があるゆえに仕方のないことではあるが、「映像演劇」の可能性を追求する岡田利規であれば、もうひとつ期待したいところだ。

 

そして今回もっとも感じたのは、やはり「ワキとはなにか」という問題だ。

夢幻能におけるワキは、ものがたりの登場人物であるとどうじに、ストーリーテラーでもある存在だ。そしてなにより、ワキの眼はシテの存在を映しだすスクリーンでもあり、シテという幽霊がたちあがることを可能にする「場」そのものであることがワキの重要な役割なのである。そう考えたときにワキの眼はわたしたち観客の眼と重なり、わたしたちはワキの眼をとおしてシテの存在を見ているのだ。

今回の上演(配信)では、メインカメラが能舞台の代わりであるテーブルをとらえているが、シテ、ワキ、いずれもそのうえに配置されたちいさなスクリーンに映しだされている。これが、ワキの役割を根本的に阻害している。なぜなら、このシステムではわたしたちはワキの眼をとおしてシテを見ることができないからだ。ことなるスクリーンに映っていることで、「ワキが見る」という行為によって「シテが現出する」という、世阿弥の発明した夢幻能のもっともドラマティックで演劇的な装置が発動しないのである。

もちろん、能とおなじであるべきだと言っているのではない。ワキという役割をあたえられても、別の可能性があってしかるべきだ。だが、それならばこれほど夢幻能の形式と表現方法をなぞらなくてもよかったのではないだろうか。ここまで能の形式をなぞるのなら、ほかにアイディアなかったのだろうか。本来予定されていたように舞台での上演であれば、もしかしたら結果は違ったのかもしれない。しかし、シテとワキがおなじレイヤーで映像化されたことにより、かたちだけを借りてきたような残念な印象をのこしてしまった。

 

出演者のなかでは、いずれの作品でもアイを演じた片桐はいりが傑作。能の形式どおり「近所の住人」(つまり能でいうところの「このあたりに住まいいたすもの」)を、スピード感と喜劇性をじゅうぶんに発揮して演じ、本質を突いた批判精神を感じさせた。

 

いずれにせよ、アイディア、脚本、そして音楽ともにさすがにみどころある今回の新作。劇場での本格上演が待たれるのはもちろん、そのアイディアでさらなるリモート演劇の可能性もひらいたという意義もあるだろう。

しかし、いまさらながらに世阿弥のつくりあげたおそろしい表現方法にたじろがざるを得ないというのが、いちばんにうかんだ思いだ。

 

 

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