黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『異邦人の庭』(演劇専用小劇場 BLOCH)

 

昨年名古屋で初演された刈馬カオスの『異邦人の庭』を、札幌劇場祭TGR2020参加作品としてOrgofA(オルオブエー)が上演。最終日11月29日の昼公演を観る。傑作の戯曲と、それにふさわしい名演であった。

 

上演時間60分のこの作品は、ある死刑囚と彼女を取材するために面会に訪れるひとりの男をえがいたふたり芝居。拘置所の面会室のアクリル板をへだてた「そちら」と「こちら」でかわされる緊張感あるやりとりで構成される秀作である。死刑囚に「みずからの死刑執行にたいする執行日選択権が与えられた時代」という近未来の設定のもと、死刑制度そのものや、ひとを裁くことができるのは誰か、ひとはひとを許すことができるのか、という倫理的ないくつもの問いが織り込まれた作品である。

 

死刑囚と面会者のあいだにはふたりをへだてるアクリル板があるという設定なのだが、台本のト書きによれば、実際にはふたりのあいだには白いテープが横一線に貼られ、アクリル板は「それは実際にはないが、白いテープの真上にあると想定される」と記されている。つまり、観るものにそのアクリル板を想像させるというわけである。

会話をするふたりの人間のあいだにそれをへだてるアクリル板が立ちはだかるなどという特別なシチュエーションは、日常にそうあるものではない。だからこそ、この拘置所の面会室という非日常的な場が、きわめて演劇的な効果を持つ。だが今年わたしたちは、新型コロナウィルスへの感染対策として、きわめて頻繁にそれを目にするようになった。コンビニのレジの利用客と店員とのあいだで。飲食店で隣席の他人とのあいだで。テレビでトークをするタレントやコメンテーターたちのあいだで。いままでではありえなかったような不自然な現実が、きわめて日常的な風景と化したのである。

そしてコロナウィルスの感染拡大のなか、今回の上演ではアクリル板はリアルに舞台に「存在」した。これが札幌市の急速な感染拡大のなかで選択された結果だったのか、それともコロナ対策とは関係なく演出の意図として設定されたのか、それはわからない。(今年8月に無観客で行われた名古屋での再演も、アクリル板は舞台に存在していたようだ)しかし、観るものに想像させることでたちあがるアクリル板と、ゆるぎなくそこにリアルに存在するアクリル板とでは、その意味するところがまったくことなるのはあきらかだろう。

リアルには存在しないからこそ、そのアクリル板はふたりのあいだを遮ったり、またシームレスに空間や感情を共有させたりと、その「ゆらぎ」を生じさせる機能を持つはずだった。だが、舞台にはアクリル板は現実に存在した。ふたりの関係(それは虚に実に近づいたり離れたりする)がどんなに変化しようとも、結局はじめから最後まで「なにひとつ共有されることはなかった」とつめたく突き放すように。

何年も前から「分断社会」と言われているように、わたしたちはみえない壁で心理的、思想的に分断されつつある。それに加えて、わたしたちは今年になってまさに「物理的に」分断された。距離を縮め共感をうながすはずのツールであったインターネットテクノロジーが、ソーシャルディスタンスの掛け声のもとに人々の物理的・心理的な距離をひろげる結果を生むという皮肉な事実。劇中のセリフで言うならば、「異邦人の庭」は2020年の現在この世界には存在することはなく、理念上のものとして要請されることしかできないのか、と痛切に思わざるを得ない現実がここにはある。そういう意味で、まさにタイムリーな上演であったと言わざるをえない。

 

町田誠也の演出は、「立場が違うものが共感することなどほんとうにできるのか」というきわめてリアリティある問いを、観るものにつきつけているように思えた。それは、「誰も傷つかない表現なんてない」という演劇をめぐるさりげない「表現」についてのサブモティーフにもつながっている。また、4つの場面をつなぐ春役のモノローグの見せ方と、そのあとの余韻の残し方がうまく、最小限の照明の変化で見せるその表現は秀逸。 

なにより、数おおく盛り込まれている倫理的アポリア(しかも価値観や意見がおおいにわかれるものばかり)にたいして、あれほどリアリティのある心理の芝居を見せながら、観客になにひとつ「答え」をおしつけることがない。これは驚異的なことだろう。問いかけを問いかけとしてそのまま提示する。それは、相違する価値観のあいだにそびえているアクリル板を、おのずと取り払うきわめて倫理的なありかたなのだ。

出演者のふたりは、いずれもまれなる名演。詞葉役の飛世早哉香の、空虚な身体性からたちあがるリアリティは特筆すべきもの。その不思議なうつろさは、まさに意味と感情の乗り物として「詞葉」の名前のとおりの存在。ことに彼女の声の表現力の素晴らしさには魅了された。春役の明逸人も、終始変わらず通底する心情と、なんども変化する立場とのむずかしいバランスを、見事に両立させていた。惜しいのは、最初の登場から、すでに詞葉にたいするある種の感情が見えすぎていて、もちろんそれはクライマックスへの伏線にはなっていても、全体のなかでみるとやはり「肚を割りすぎ」に思われた。

 

これからもなんども再演を重ねられるべき傑作が、たぐいまれなるクオリティで演じられたことに拍手をおくりたい。そして、このふたたび公演自粛の嵐が吹きはじめたなかにあって、無事に上演までこぎつけられ、それを目にすることができた幸せにも感謝しかない。

 

 

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