黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

五月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

尾上菊五郎家にとって、『白波五人男』の弁天小僧菊之助は紛れもなく五代目以降受け継がれてきた「家の芸」である。

 

菊五郎が数年前に前回この役を手がけたとき、「浜松屋」「稲瀬川勢揃」だけでなく「立腹」「山門」までを半通しで出し、それに合わせて「この歳だから立ち回りはもう最後」というようなことを云っていた。年齢を感じさせない身体の動きに引き込まれたと同時に、これで見納めかというさびしい気持ちにもなった。

今回また菊五郎の弁天小僧が出ると聞いて、当然「稲瀬川勢揃」までだろうと思いの外、またもや屋根上の立ち回りまで演じた。これが、七十五歳とはとても思えない錦絵のような美しさを見せる。

もちろん、若い役者のみせるキビキビとした動きの面白さ、スピード感はない。しかしそのかわりに、ツケがバッタリと打ち込まれキマるカドカドで、実に見事な「絵」を見せる。その一瞬の静止画そのものが、どんな動きの派手な殺陣をも凌駕する「動」を見せるという、これこそ歌舞伎の面白さだろう。

いまの菊五郎を身体が衰えた(あたりまえのことだ)ということは表面的な見方でしかない。「動けない」菊五郎ではなく「動かない」菊五郎にその名人芸はある。

 

後半の立ち回りで円熟した「絵」を見せたのと同時に、菊五郎の弁天は前半では「自然さ」と「若さ」を見せる。

型をキメながらも、そこにキマりすぎることなく次へ次へと自然に芝居を運んでいく近年の菊五郎の自在さ。「五段目」の勘平などで見せるその境地はここでも健在で、弁天小僧というキャラクターが実にリアルにいきいきとしている。ことに、有名な「知らざぁ云って聞かせやしょう」からの名台詞が、いままで何度も聞いてきた菊五郎自身のそれと比べても、時代に張る部分と世話にくだける部分とが自然に流れつながっていく。

それ以上にいまの菊五郎の特筆すべき美点は「声の若さ」だ。

菊五郎はもともと声のよく通る役者だが、この一年くらいのあいだに、高音が非常に自然に聞こえるようになった。男性は、一般的に加齢とともに声帯が変化し声が高くなる傾向にある。菊五郎の場合、その魅力ある低音の豊かさは少しも損なわれることなく、加えて高音部の伸びが以前より増した。このことが、女と男を演じ分ける弁天小僧を、より自然に、より若々しく見せることにつながっていることは疑いもない。音羽屋の古典的なやりかたとしての弁天小僧の、ひとつの究極の完成形が今回の舞台にあった。

 

南郷を演じた左團次にも菊五郎と同じように自然さという意味で上手く、よいテンポ感をつくっている。

大ベテラン二人に対し、まわりの役々はバランス的に一世代ほど下の座組。忠信に松緑、赤星に菊之助、鳶頭に松也といった次世代の菊五郎劇団を支える面々に、ベテラン団蔵の「巧さ」が光る浜松屋幸兵衛。

 

なかでも目につくのが日本駄右衛門の海老蔵の素晴らしさ。意外なことに初役だという。初日過ぎに観た昼の部では声をセーブしているようにも思われたが、ここでは四方によく響く低い声といい押し出しといい、実に立派な駄右衛門で、先輩方の演じる一味を率いる賊徒の張本として申し分なく、今後もおおいに期待したい。

ただ一点、「浜松屋」の幕切れは中途半端になった。「このあと実は」というところにつながる片鱗も見せながら、かつハラを割らないという大事なところ。難しいのは確かだが、本人なりの工夫があったのか、かえってここだけ異様に軽くなってしまう。「もはや四十と人間の運めは僅か五十年」とみずから云う駄右衛門だが、いうまでもなく現代の四十歳と違い立派なベテラン頭領。そのあたりがまた難しいところ。

 

魅力的な配役を得て新旧世代の共演となった今回の『白波五人男』の大当たり。「平成の歌舞伎」というものがあるとすれば間違いなくその中心であった菊五郎は、どちらかといえば保守的で古典的な役者だ。(たまに見せる時事ネタ好きのお遊び演出はその保守性からくる「照れ」の表れであって彼の本質ではない)その役者が、まもなく終えようとする平成の世のおわりに若い役者とともにみせた、ひとつの完成形としての『白波五人男』。次の世代はどのように継承していくのだろうか。

 



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