黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

「正しさ」を演じるコトバたち

 

「麻生氏『北の核の感覚、戦略外交では正しい』」

麻生副総理兼財務相は30日、東京都内で開かれた自民党議員のパーティーであいさつし、北朝鮮が進めてきた核開発に関連し、「『俺のところは核で武装する以外に手がない』と思う北朝鮮の感覚の方が、少なくとも戦略外交とかをいうときは正しい」と述べた。

インドが事実上の核保有国として米国に容認された一方、リビアのカダフィ政権が核開発などを放棄した後に崩壊したことなどを引き合いに、北朝鮮が核開発を進める狙いを解説したものだが、核開発を是認する発言と受け取られる可能性がある。

(YOMIURI ONLINE 2018/5/30)

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20180530-OYT1T50140.html?from=ycont_top_txt

 

 

麻生太郎という政治家は、おそらく自分の発言に人一倍自信を持っているように見える。それは華やかなる出自ゆえに身についた、生まれながらのものかもしれないが、政治家にとって、自信を持ってメッセージを発信するというのは重要な能力だ。

たしかに麻生は思い込みや無知からくる見当違いの「失言」を繰り返すことがある。しかし、彼は基本的にはセンチメントに左右されないリアリストで、ほとんどの場合にきわめて「正しい」ことを云う。

 

麻生はこれに先立つ数週間前にも、財務次官のセクハラ疑惑に関連して「セクハラ罪という罪はない」と発言し大きな批判を浴び、数日後に「親告罪なので訴えられなければ罪ではない。事実を云っただけ」と述べ火に油を注いだ。

だが、誤解を恐れずあえて云うが、麻生の云ったことは「正しい」のだ。彼自身がその前提条件を補足したとおり、「事実として」つまり「法体系として」そのような罪は存在しないということを云ったに過ぎない。

 

さきに引用した北朝鮮の核戦略についての発言も「少なくとも外交戦略は」という本人の条件づけのなかではリアリスト麻生にとって「正しい」認識だと云ってよい。(そういう意味ではきちんと発言を中立に伝える記事だとも云えるが)もちろん国際政治上それが正しいかどうかは議論の余地があるところだろうが。

 

「正しい」はずの麻生の発言がいつも批判を浴びるのは、批判をする側にとってはそれが「正しくない」からだ。もちろんそれは考え方の違い、信じるところの違いという部分もある。しかし最も重要なのはそれを「正しい」か「正しくない」かを判断する条件づけ、つまりは「文脈」の違いということにほかならない。そしてこういった批判が無意味な空振りに終わるのは、批判する側がその文脈のズレに無自覚に批判をすることに原因がある。

 

社会のモラルや個人レベルの感情という文脈から云えば、セクハラやパワハラは忌むべき行為だ。被害者の人権は守られるべきだし、加害者は社会的な制裁を受けるべきだ。少なくともこの現代社会ではそれが「正しい」あり方だろう。しかし一方で、被害者からの訴えなくセクハラ一般を罰するセクハラ罪なるものが現状として法にないという実態があるということも「正しい」事実認識だ。

ふたつの「正しい」は対立しているわけではなく、まったく別の文脈のなかの価値判断だということに過ぎない。そのことを無視しては、どんな批判も反論も意味を持たない。(それでは現状の法体系が問題であるので実態に合わせて変えていこう、という当然の帰結はまた別の文脈の話なのだが、そこへ発展する記事がほとんどないことは残念だ)

ちなみに昨今の森友・加計問題は何が(誰が)「正しい」のかという以前に、この文脈そのものが成立していない、つまりは文字どおり「話にならない」レヴェルの事態と云えるのだが。

 

政治家の発言とそれを批判するマスコミ(大衆)という関係に限らず、わたしたちの日常で使われているコミュニケーションには全て同じことが云える。コトバという名の俳優は文脈というその時のステージの上で、かりそめの「役」を与えられているにすぎない。

役をはなれた俳優がただの人でしかなくなるように、文脈をはなれてなにかのコトバが「正しさ」を主張することはないし、その「正しさ」を支える根拠が舞台の外のどこかに存在するようなことはない。

俳優も入れ替え可能ならば、演目も、劇場も入れ替え可能なものだ。しかし、その俳優に説得力ある演技が出来たとき、その説得力がその時その場限りの「正しさ」つまりリアリティとなって観客に届く。ただ、その「正しさ」が届くかどうかは実はまったくの偶然でしかなく、偶然だからこそ価値あるものになるのだが、それはまた別の話。

 

 麻生太郎は間違ったことは云っていない。しかし彼がしばしば忘れているように見えるのは、自分が有権者から選ばれる政治家だということだ。

自分の発言内容が自分にとって「正しい」ものであったとしても、大衆にたいしてそれが意図したような意味を持たないのだとしたら、「公の場での政治家の発言」という別の文脈ではまったくもって「正しくない」。また当然ながら日本の国益を代表する立場の人間の発言という文脈でも「正しくない」。その構図にきわめて無自覚であるという一点において彼は実はリアリストではないのであり、非常に残念な政治家なのだ。