ベートーヴェン作曲
『フィデリオ』(全二幕)
【指揮】飯守泰次郎
【演出】カタリーナ・ヴァーグナー
【出演】黒田博/ミヒャエル・クプファー=ラデツキー/ステファン・グールド/リカルダ・メルベート/妻屋秀和/石橋栄実/鈴木准/片寄純也/大沼徹
【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団
2014年の秋に就任して以来4年間にわたってオペラ部門芸術監督として新国立劇場に関わってきた飯守泰次郎の、指揮者としての最後のプロダクション。就任時に指揮をした『パルシファル』(ハリー・クプファー演出)で世界的な水準でのヴァーグナー上演を提供してくれた飯守が最後に選んだのは、スキャンダラスな演出家カタリーナ・ヴァーグナーを迎えての『フィデリオ』である。
千秋楽である6月2日を観る。
音楽面ではやはりフロレスタン役のグールドとレオノーレ役のメルベートの歌唱が圧倒的。どちらも歌手に理不尽なまでの要求する難役だが、世界のどこの劇場でも満足させるであろう素晴らしい出来。日本人キャストではロッコ役の妻屋が安定していて良い。
飯守の指揮する音楽は、第一幕はなんともアンサンブルもバランスも悪く、フレーズの処理もぞんざいで上滑りした印象を受ける。しかし第二幕になると、人が変わったように集中力のある音楽になった。特に第二幕冒頭の長い前奏からのフロレスタンのアリア、また挿入された『レオノーレ』序曲第三番、フィナーレなどは音楽が引き締まり、これぞベートーヴェンという熱量のある演奏。
演出面については予想通りで、物議を醸すひねったもの。
殺される寸前だった囚われのフロレスタンとレオノーレが大臣の到着により一命をとりとめ、悪政を敷いた総督ピツァロは裁かれる……といった本来の勧善懲悪のストーリーはこの舞台にない。主役の二人は哀れにもピツァロに殺されてしまい、ピツァロと別の若い女性がフロレスタンとレオノーレに変装して民衆解放の象徴となる。フロレスタンとレオノーレは地下牢で愛と自由をたたえながらそれが得られるであろう世界へ向かって死んでいき、愚かな民衆はフロレスタンに扮したピツァロの先導により知らぬうちに再び牢獄へと逆戻り。
こうまとめると、いかにも逆張りといったアマノジャクな演出だ。
ともするとこの演出は、権力者の圧政と民衆という構図があり、またそれを克服して自由を得たと思っても、実は正義と見えた新しいシンボルもその実態は同じような権力が別の仮面をかけていただけ……そんな寓話のように見える。政治劇としての『フィデリオ』を現代に読み替えるとそのようなアプローチなるだろう。だが、この演出がそのような政治的なメッセージのものだとしたら、いかにも陳腐なものにしかならない。そのようなことは隠喩として物語に示されなくても、もはや「誰でも感じていること」だからだ。
マルツェリーナが想いを寄せるフィデリオとの新婚生活を夢見て手に取り遊ぶ人形。レオノーレが部屋に密かに飾っている夫フロレスタンの肖像画。ピツァロの眺めるレオノーレの肖像画。異例なことに第一幕から地下牢に姿を見せているフロレスタンが壁にえがくレオノーレの絵(影として写るマルツェリーナの姿を見て妻と勘違いしそれを絵に写し取ろうとする)。
それぞれに欲望するものが、その代替物として与えられ(あるいは作られ)、その身代わりを愛でることしか許されていない世界。この世では「欲望する対象そのもの」に手が届くことはなく、それは死ぬことによって得られる「ここではない世界」へおもむくことではじめて得られる理念のようなものなのだ。
(ドラマツゥルグのウェーバーがプログラムノートで"hin zur heiligen Nacht"と引用して『トリスタンとイゾルデ』的な世界との類似をにおわせている)
民衆にとっても、自由や解放の象徴である求められたままの偶像があればよいのであって、その中身が誰なのかは問題ではない。それが英雄の仮面をつけた悪代官であっても気がつきもしない。
つまり、これは「政治」の寓話ではなく「宗教」の寓話なのだ。真実や正義を裏付ける根拠を失った混沌たる現代社会における宗教の救いと、その宗教さえも倒錯した仮面劇にすぎないのだというアイロニー。
カタリーナ・ヴァーグナーの演出は、決して奇をてらった気まぐれな読み替えなどではなく、非常にわかりやすいアイディアに満ちている。そこにはきわめて現代的なメッセージもある。(ナチス・ドイツの歴史を背負うドイツ人として、彼らに利用されたヴァーグナー家の子孫としての彼女のメッセージとしては別の意味で興味深いが)
ただ問題は、そこには差し替えることが出来ないベートーヴェンの音楽があるということだ。カタリーナがバイロイトでの演出した曽祖父ヴァーグナーの音楽はそれを受け入れたかもしれないが、『フィデリオ』という理想へ向かいひたすら突進する正義の音楽がそれを受け入れてくれたのだろうか。