黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

六月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

夜の部は初夏らしい狂言二本立て。

 

 『夏祭浪花鑑』は歌舞伎座建て替え中の2011年の6月以来、ちょうど7年ぶりとなる吉右衛門の団七。

結論から云えばいささか低調な『夏祭』であった。

まず、初日からまだ数日とはいえ、科白が怪しい役者が多すぎること。また、これは東京の役者がやる上方狂言にはつきものだが、上方言葉があいまいなために科白にも芝居にもリズムが出ないこと。バランスの良い座組での上演にもかかわらず、全体にそのような傾向がみられて残念だ。

そのなかでも、歌六の三婦と雀右衛門のお辰が光る。

歌六はこの中でも唯一と云ってよいほど上方の科白まわしがはまり、なんと云っても浪花の老侠客としてのリアリティがあってよい。ことに耳にかけた数珠を引きちぎってからの手強さはさすが。

雀右衛門は三婦内での前半は役がはっきりせず、「おなごがたたぬ」と云うだけの力強さが足りない。三婦に「色気があるゆえ」と云われてハッと頬に手をやる一瞬で女の色気が際立たないのは、それまでとの対比が希薄だからで、お辰自身が虚をつかれたのと同じように観る側にもそれをもたらすイキが必要だろう(先代雀右衛門のこの一瞬は「女」を見せてうまかった)。しかし、このあと焼きごてで頬を焼くことを思いつく思い入れ、小盆を鏡にして見入る決まり、小盆を立てて三婦に「これでも色気がありんすか」と迫るイキ、いずれもお辰の男勝りな強さが出て見事。花道の引込みでの「ここでござんす」には満場の拍手が出る。

そして大詰。今回の「長屋裏」を観て、義平次という役の重さを考えさせられた。いっけん『仮名手本忠臣蔵』の三段目のパロディを思わせる団七と義平次のやりとり。もちろん義平次は師直のように重い役ではないし、大抵は大幹部がやる役ではない。それは団七が思わず舅殺しをするにいたるための、いわば「触媒」のような存在だ。しかしだからこそ、この義平次のアクの強さ、道理の通らなさがこの場には不可欠なのだ。橘三郎の義平次は役作りも芝居もうまい。しかしそこにもう一つ義平次としての醜悪さ(邪悪さではない)があれば、吉右衛門の団七の殺し場により必然性が生まれるだろう。

祭りの掛け声は「ちょうさやようさ」ではなく「ワッショイ」。上方芝居だからという理由だけではなく、前者のほうがリズムが出てこの場の悲劇性が増すように思うのだが、「ワッショイ」では間が抜ける。

幕切れでの「悪い人でも舅は親」の名調子。花道の引込みでの絶望ゆえの狂気。さすが見せ場でぐっとみせる名優吉右衛門だが、それで溜飲が下がるかと云われたら、そうはならないのだ。

 

24年ぶりの上演という宇野信夫の『巷談宵宮雨』。

張られた伏線の見事さ、人物造形のていねいさなど、こんにちにあってももっと繰り返し上演されてよい作品である。それぞれの役の持っている気質がうまくえがかれ、それが結末まで自然につながっていくので、現代でもありそうな話になっている。

初役ばかりのうえ、膨大な科白にもかかわらず、いずれもうまく練られた熱演である。しかし、一つの芝居としてうまくまとまったかというとそれは別の話。

主役である太十の松緑と、龍達の芝翫の芝居が、あまりにスタイルが違いすぎている。あくまで歌舞伎として演じる松緑と、もっと現代的なリアルさのなかで演じる芝翫。二人のやりとりがテンポよく絡むわりに、不思議とそこにリズムが生まれないのはそういう理由だろう。二人ともにそれぞれとてもよい芝居をみせるだけにもったいない。

橘太郎の薬売りが自然な笑いと哀れみを出してよい。

場面転換で、やたらと定式幕を引くのも余韻が邪魔され気になった。 初演はそれでも良かったかもしれないが、いずれも暗転と暗転幕でつなぐべきだ。

堀端の幕切れは薄暗い照明をうまく使って面白いが、現代の観客にもうひとつうったえるには別のやり方があるし、またそうでなければならないだろう。

 

 


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