黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

弥勒菩薩がやってくる日

 

ひさびさに京都を訪れた。

広隆寺霊宝殿にある弥勒菩薩半跏思惟像。自分は仏教徒ではないが、この仏像に惹かれ続け、いままでも京都に足を運んだ際には、時間があれば足を運び眺めてきた。

いくたび眺めても飽きることはない。かすかに前かがみになりながらも凛として伸びた背筋。思いめぐらせるその心の内側をのぞかせる繊細な右手。なによりも慈悲と不思議な確信に満ちあふれたおだやかな微笑み。おそらく古今東西、もっともシンプルで、もっとも完成された仏教美術のひとつだろう。

 

弥勒菩薩は、釈迦の入滅後56億7000万年後にこの世界に現れ、人々を救済するとされている、未来の「仏陀」になるべく修行を続ける菩薩である。

ゼロと無限を「発見」したのは古代のインド人だと云われているが、仏典において無限が直接的に書かれることはなく、「恒河沙」つまり「ガンジス川の砂の数ほどの」などという有限なもので比喩的に表される。また「阿僧祇」や「那由他」などの「数えられない数」を意味する語も「五百四十万億那由他」のようにあたかも乗算によって有限の値がもとめられるような形で使われる。だが、これらはどちらがより大きい数かということではなく、結局のところわたしたちの認識を超えた大きさ=無限を表している。

そういう意味で、弥勒菩薩の到来が56億7000万年後というのも、仏教一流の無限な未来の比喩であると云ってよい。

 

無限でありながら、あえて有限な数で示される。時間的にも空間的にも有限なある点をしめながら、その実は無限である。

なぞかけのようなその両義性は弥勒菩薩に限ったことではない。釈迦も実在のゴータマ・シッダールタを離れて久遠成仏の釈迦如来という存在になる。認識を拒む不可思議な時間と空間のなかで、おびただしい仏たちが登場する。仏典に書かれたそのいささか過剰な世界観。すべては仏教のもつ時空の拡がりを象徴するために不可欠な「喩」なのである。

 

学ぶことに終わりはない、芸の道は尽きることがない、などとよく云われる。

しかし、ひとは本当にゴールのない道を歩き続けることが出来るのだろうか。宮台真司が云った「終わりなき日常」を生きていたはずの女子高生たちは、実際にはそれでは歩き続けられなかった。また反対に、大きな物語が喪失してしまった現代を生きるために、それを無理やり求めることが悲劇につながるということをわたしたちは経験している。

カントが云ったように、わたしたち人間は無限や究極といったものを想定せざるを得ないやっかいな理性をもっている。しかし、その認識できないある点を「要請」するのは、わたしたちが生きているためにそれが必要だからだ。わたしたちはそのゴールがいつまでも手に入らないことを知らなければならない。だが同時に、その届かないゴールが無限の彼方に「理念としてある」ことを信じなければ生きていけないのである。

 

弥勒菩薩は静かに目を閉じている。56億7000万年後にいかにしてわたしたち悩める衆生を救うかと考え続けている。たぶん、ずっと、ずっと。

わたしたちは誰も、心の中にそれぞれ自分だけの弥勒菩薩をもって、たしかに生きている。