黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

東京二期会『魔弾の射手』(東京文化会館)

 ウェーバー作曲

『魔弾の射手』(全三幕)

 

【指揮】アレホ・ペレス

【演出】ペーター・コンヴィチュニー

【出演】藪内俊弥、伊藤 純、北村さおり、熊田アルベルト彩乃、加藤宏隆、小貫岩夫、小鉄和広、杉浦隆大、大和悠河

【合唱】二期会合唱団

【管弦楽】読売日本交響楽団

 

千秋楽の7月22日(日)を観る。

 

ドイツロマン派初期を代表するこのオペラは、いまとなってはいささか時代遅れとも思わせるその音楽や物語ゆえか、ヨーロッパにおいても斬新な読み替え演出によって上演されることが多い。今回の二期会も、世界中で物議を醸す演出家ペーター・コンヴィチュニーを迎えての公演である。

 

コンヴィチュニーの演出は取り立てて斬新な部分はなく、むしろ全体的に今日ではオーソドックス(もとは20年も昔のプロダクションだけあって既視感のある)とも云えるテイストでまとめている。その中でもコンヴィチュニーらしい大きな特徴が2点ある。

まず、オリジナルではあまり舞台に登場するシーンのない悪魔ザミエルを頻繁に(しかもファッションショーのように毎回衣装を替えて)登場させ、本来は目に見えない「あちら側」の住人である悪魔を可視化したこと。ザミエルを演じたのは元宝塚スターの大和悠河。客席からは彼女のファンと思われる一群から登場のたびに惜しみない拍手が送られているが、埋めようのないテイストの違いが、本来は不気味で霊(ガイスト)的な「あちら側」の世界である魔の世界や死といったものをいささか陳腐なものに見せている。

もうひとつは、「隠者」のあつかいである。この作品はもととなった原作の段階ではアガーテは魔弾に当たって命を落とす設定であったが、それをオペラ化にあわせて白バラの冠の力で一命をとりとめることに書き換えられた。そこからの一連のなんともご都合主義な結末がこのオペラの情けない部分なのだが、このエウリピデスも真っ青の"deus ex machina"(機械じかけの神)をどう説得性を持たせるかは演出家の腕の見せ所とも云える。コンヴィチュニーは「隠者」を観客席の一列目に座らせ、幕が一旦しまった舞台に乱入する観客代表になぞらえる。この金持ち然とした「観客」が、マックスも赦してやり、一年の猶予期間の後にアガーテと結ばせてはどうかという歌を歌う。神様であるお客様のご意向で無理やりハッピーエンドにするというのはアイディアとしては面白いが、たんに金も出すが口も出すスポンサーを拝んでいるようで(そういう意図なのかもしれないが)これまた陳腐である。

 

演出上の問題点ではあるのだが、演出家の責任の範囲ではない最重要な問題点について。

『魔弾の射手』は、オーケストラ伴奏のつく歌の部分と純粋なセリフの部分をもつ、いわゆるセリフ付きオペラである。(大変残念なことに)日本でのセリフ付きオペラでは少なくない上演形態の悪しき例に漏れず、歌は原語のドイツ語で歌われ、セリフは訳された日本語だ。この段階で、この公演は演劇でもなく、オペラでもなく、ただの奇妙な発表会である。なかでも、ドイツ語で歌うカスパールと日本語で話すザミエルの対話はなんのコントがはじまったのかという噴飯ものだ。そして全編通してオペラ歌手の日本語のセリフのレヴェルは学芸会レヴェルである。

 

音楽面では、指揮者のペレスがウェーバーらしい引き締まりながらも重さのあるサウンドをオーケストラから引き出していたことと、オーケストラピット内のチェロのソロが素晴らしかったこと以外は、特筆すべき成果はなかった。

 

 

 

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