黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

アンドロイドオペラ ”Scary Beauty"(日本科学未来館)

 

2018年7月22日 (日)20:30
日本科学未来館1Fシンボルゾーン

【出演】
コンセプト、作曲、ディレクション、ピアノ:渋谷慶一郎
ヴォーカル、指揮:オルタ2
演奏:国立音楽大学学生・卒業生有志オーケストラ

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ロボット学者石黒浩の作ったアンドロイド「オルタ2」に、人工生命の専門家池上高志の自律的運動プログラムが搭載され、渋谷慶一郎の作曲したオーケストラ音楽を指揮し、自ら歌うという、話題のコンサート。

演奏される曲は、フランスの小説家ミシェル・ウェルベックや三島由紀夫のテキスト、またウィリアム・バローズや哲学者ヴィトゲンシュタインの遺作などをモチーフとし、AIが独自のアルゴリズムにもとづいて自動作曲したものを、渋谷が修正を加えて仕上げたもの。しかしこのコンサートの最大のポイントは曲そのものというより、アンドロイドにどこまで指揮ができるのか、アンドロイドが指揮をしたとき演奏はどのように私たちの想像をこえた新しいものになるのか、ということにつきる。

 

若いオーケストラを前に、オルタ2の両腕は禍々しい軌道をえがき、ときには穏やかに、ときには激しく揺れ動く。暴力的で混沌とした1曲目が終わった時点ではまだ明らかな戸惑いを見せていた観客も、明快なテンポとリズムをもつ2曲目、3曲目と演奏が続くにしたがって異様な空間に引き込まれ、最後は大きな拍手をオルタ2とオーケストラに送る。60分足らずの短いコンサートであった。

 

このきわめて異様なコンサートにおいて、考えなければならない二つの問いがある。

 

まず第一に「オルタ2は指揮をしていたのか」という根本的な問題だ。これは「指揮者はオーケストラの前で何をしているのか」という、より一般的な話と無関係ではない。

指揮者は曲のテンポやニュアンス、構成というものについて、その曲全体あるいは開始部分について明確なイメージをもって指揮をし始める。そして、演奏し始めるタイミングをそろえ、共有すべきテンポを呈示し、微妙な流れの変化にそのつど方向性を与え続けながら音楽と「並走」する。そのためには手の動きだけではなく身体の全体を通して、ブレスつまり息の流れを視覚化してそれを演奏者に伝えることが必要だ。(この点については当プロジェクトでも重要なポイントとして考えられていて、腰骨にあたる部分や肩関節などを含め、総合的な動作でオルタ2が指揮をするように考えられており、それがあの異様な動きにつながっている)

結論からさきに云えば、オルタ2はこれら指揮者の仕事を果たしてはいない。

まず、曲をスタートさせていたのは自発的なオルタ2の動きではなく、オルタ2の横でピアノを弾いていた渋谷の合図(なぜか彼が普通に指揮をしている)や、オーケストラの奏者どうしの息合わせやカウントだ。曲が始まるときにかぎってオルタ2に当たっていたはずの照明が消え、演奏開始後にそっとフェイドインする演出は、神秘的な効果を聴衆に与えたかもしれないが、むしろオルタ2が「演奏をスタートさせていない」ことを見せないために重要な役割を果たしていた。演奏者によってはじめられた音楽に合わせて、オルタ2が指揮をしている「かのように」動き出すさまは現代舞踊のようであった。

次に、流れている演奏にたいしてオルタ2が指揮者としてなんらかの変化を与えられていたかということについても、残念ながらそのような瞬間は存在しなかったと云えるだろう。ある程度優秀なオーケストラであれば、比較的テンポが安定している曲や、パターンがわかりやすい曲であれば指揮者なしでも問題なく「整った」演奏をすることは容易だが、そのようなとき(また、いないほうがマシなくらい下手な指揮者のもとで指揮を無視して演奏せざるを得ないとき)にしばしば行われるような自主的なアンサンブルが今回のオーケストラにあったことは、プロの演奏家であれば容易にわかるはずである。また、指揮者は演奏に対して能動的に関わる存在であることは確かだが、同時に自分の指揮のもとでプレイヤーが奏でている音楽を受動的に聴き、そこからまた影響を受ける存在でもある。そのある意味対等な関係も、この夜の演奏からは感じることは出来なかった。テンポの変化、曲想の変化、フレーズのリスタートにあたって、それとは全く無関係に動くオルタ2の「指揮」は、文字通り空を切る。

 

だが、不思議なことにその残念な結果に聴衆は熱い拍手を送った。Twitterやブログは「大成功」した「歴史的な瞬間」にたいする絶賛に埋め尽くされていた。オルタ2はこの夜「指揮をしていなかった」のにもかかわらず。そこにはないはずのものが、なぜあることになってしまったのか。それがより重要な第二の問いである。

コンセプトを「見せる」ための演出はひじょうによく考えられていた。さきに述べた照明だけでなく、いっけん失敗かと思わせる混沌とした曲をはじめに演奏し、そのあとでリズムのわかりやすい曲でクリアな演奏を聴かせるという構成もなるほどと思わせた。作曲に用いられたいくつもの「遺作」たるテクストのイメージも大きかった。なにより、不気味なまでに人間に近づけられた顔と手を持ちながらあえて無機的な体幹を露出させたオルタ2の「境界にあるもの」としての姿そのものが、あるはずのないものを召喚する媒介としてきわめて優秀な役を演じていた。しかし、それらの演出以上に重要だったのは、公演のウェブサイトやパンフレットに渋谷慶一郎が書いたコンセプトそのものだった。

そのなかには、このコンサートで目指したこと、オーケストラとの練習の中で見出されたこと、そして最終的にその共同作業がどのような演奏に結実したのか、その「物語」が記されている。その「物語」を聴衆は信じたのだ。「このコンサートではAということが行われる」という看板を読み、聴衆は「このコンサートではAが行われていた」と感じる。しかしそれが本当にそうなのかどうか、専門家でなければ検証することは出来ない。それは圧倒的に情報を持っている送り手と確かめる手立てを持たない受け手との、きわめて不平等な関係であり、それこそがあるはずのないものをある「かのように」見せた劇場のプロセニアムなのではないだろうか。それは同時にきわめて「宗教」的な問題である。

 

人工知能(AI)がどこまで人間の仕事や活動に替わるものになっていくのか、様々に論じられるようになって久しい。AIがなにかをするといっても、そのためのプログラムをメタレヴェルで人間が規定している以上、さかのぼって行けば厳密な意味でAIだけで人間を超えていくことは容易ではない。だからこそ、知的な冒険としてAIのもつ可能性を追求する旅は続けられるだろうし、その過程でわたしたちが得ることも少なくないはずだ。

だとするならば、なおさらその旅の行く先を真摯に見たい。アンドロイドが本当の意味で指揮をする姿を見てみたい。そのことで指揮者が果たしている役割がより明らかになるかもしれない。また、アンドロイドが人間になりかわることの「意味」がもしあるとすれば、それをわたしたちに教えてくれるかもしれない。