黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

川の流れのように〜『手をなくした少女』を観て

 

話題になっている『大人のためのグリム童話〜手をなくした少女』を観る。

 

昔から知られているグリム童話『手なし娘』を現代に蘇らせた、セバスチャン・ローデンバックのアニメーション映画だ。監督自身がひとりですべての作画を手がけたというから驚きだ。クリプトキノグラフィーという手法が使われているそうだが、その自由な筆の線でえがかれる背景や人物は、東洋の水墨画を思わせる。何年か前に発表された高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を思い出させるような不思議な画面だ。

そのあいまいな線によって切り出される人物たちの持つイメージの変化(へんげ)していく自由さ。いや、切り出されるということさえ云えないかもしれない。揺れ動く最低限の輪郭線しか持たない絵は、これまたあいまいに「色」をあたえられるのだが、基本的に塗りつぶされることがないために、背景は透き通っている。まるで幽霊のように存在感がないはずの人物が、そのことでかえって際立った存在感を獲得するという恐ろしく奇妙な光景を目の当たりにした。

 

この映画でひじょうに印象的なのは、水、それも流れる水のイメージだ。川に流れる水はもちろんだが、主人公の父親が得た流れ出る黄金、母親の乳房からほとばしる母乳、畑に撒かれる水、また驚くことに木の上から放たれる尿にいたるまで。この作品のさまざまな「流れ」がわたしたちにみせるものはなんだろうか。

仏教的な世界観においては、わたしたちの存在というものは、絶えず流れ行く川のなかでたまさかに生じた「淀み」のようなものだと考える。同じように見える川の流れも、その一瞬一瞬でまったく違う水が流れて行くにすぎない。たしかに実在を感じているはずのわたしたちの身体さえも、存在論的にも確固たる同一を云うことはできないし、物理的にも分子レヴェルで絶え間ない入れ替えが行われていることは周知のことだ。

あやういまでにはかない線の集まりによってえがかれる人物たちは、それでもたしかにスクリーンの上で生きているかのように躍動する。はかないからこそ、何にでもなれる可能性を持ち続ける線たち。映画という時間の川の流れのなかで、観るものの覗き込みようによっていかようにでも姿を変え、なににでもなり得る可能性を示してくれる。

 

映画のラストシーンで、少女も息子も王子も、小さな一つの「しみ」となって自由に世界にはばたいて行く様がえがかれる。それはまるで、アニメーションのなかの人物なんて、流れ行くスクリーン上の時間のなかでの、たまさかの「しみ」のようなものに過ぎないのだと、わたしたちに語りかけているように思えた。

 

 

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