黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

同じ顔の男たち〜『寝ても覚めても』を観て

 

 

わたしたちは、目の前の友人を指して「あなたはタレントの誰々に似ている」などという話をすることがある。もちろん本人や周囲の賛同を得られることもあるが、云われた本人はもちろん、周りの誰もそうだと思ってくれないような場合も珍しくない。

ある人物とある人物の顔を見比べて、それを「似ている」あるいは「そっくりである」と思うことは必ずしも他人と共有できるものではない。それはたんに目に見える外面的な要素そのものではなく、そのひとつひとつの要素に結びついた主観的な「感情」にもとづいた思考だからだ。

 

濱口竜介監督の最新作『寝ても覚めても』の公開に先立って発表された、雑誌やインターネット上でのさまざまな批評や記事にはあえて目を通さずに、原作である柴崎友香の小説だけを読んで映画館へ足を運んだ。映画化にあたってもっとも楽しみにしていたのは、麦と亮平の二人の「顔」についてどのように表現されるかという点であった。

つきあっていた麦に突然いなくなられた朝子は、何年も経って麦と同じ顔を持った亮平と出会う。朝子は亮平とつきあうことになるが、ある日俳優になっていた麦をテレビ画面で見て動揺する朝子は麦と再会してしまう。この基本構造は原作も映画も同じだが、原作で重要なポイントは、亮平と麦の顔が似ていることは周りの人々も認めるが、朝子がそっくり同じ顔だと思っているのとは違い、「同じ系統」である程度だと認識されていることである。後に朝子は亮平の写真と麦の顔を見比べて、二人がまったく似ていないと感じるようになるのだが、その意味で朝子の視点が「信頼できない語り手」のヴァリエーションにもなっている。それはつまり「二人の男の顔が瓜二つ」という認識は、朝子のある感情という条件下でしか成立していない幻想であるということだ。しかし濱口竜介監督の映画では東出昌大がひとり二役で麦と亮平をつとめており、つまり二人の男の顔が同じであることを、朝子だけではなくわたしたち観客にもキャスティングの段階で自明のこととして提示されている。

 

映画は原作とは細かい構成や設定がかなり異なっている。二人の顔がどこまでそっくりかという点については、明確に同じ顔の持ち主であるという事実が、朝子にとってのみならず関係者全員にはっきり認識されており、それはまったく同じ顔の麦と亮平が顔を合わせるという原作にはないドラマティックなシーンでも明らかだ。そのファンタジックな設定が、朝子のまさかの行動にある種の強引な説得力をもたらすと同時に、同時に周りの人物たちや観客により大きな衝撃を与えている。

麦と亮平の顔について、もう一点重要なポイントとなるのは、さきにも触れた「写真」である。麦がカメラを嫌がり一枚も写真を残さなかったのに対して、亮平は写真を撮らせている、という原作の設定は映画では破棄された。麦が写っている写真がない、というのは麦の存在にゴースト性をもたらし、リアルな世界の亮平との二項対立を形成し、作品のタイトルである『寝ても覚めても』につながる。映画ではそのリアリティの濃度の差はもっぱら東出昌大の演じ分けに委ねられている。麦の異様な軽さを前にしながら、朝子が亮平と過ごした時間を「長い素敵な夢を見ていた」とつぶやく倒錯感が、その先の展開を導くのに一役買っている。

 

東日本大震災、被災地の生活、東北の海と波の音、語り合う女友達、カメラをまっすぐに見つめる顔。濱口のこれまでの作品を思わせるモチーフが多く登場し、さまざまな連想をさせると同時に、やはり濱口の過去作とは大きく印象が違う。机を囲むシーンでカメラ側の一辺に誰も座っていなかったり、麦が去っていくのを見送る朝子を捉えるカメラが後ずさりしたりと、古典的とも云える手法があちらこちらで見受けられる。まるで観るものにその場にいて時間を共有しているような錯覚を起こさせる、あの濱口のリアリティは今作では希薄である。リアリズムからファンタジーへ。それはヒロイン以外に玄人俳優を起用したことに起因するのか、それとも濱口の新境地なのかは、興味のあるところだ。

 

原作の柴崎友香はこの作品について「目に見えたままを書いた」と語っている。柴崎の文章は一歩間違えば冗長にもなりかねないほど細かく情景や出来事を描写する。そのまなざしは、否応なくそこにあるものを写真や映像にしてしまうカメラのレンズと同じなのだろうか。いや、「目に見えたまま」というコトバのとおり、それは見ているまなざしの主観でしかありえないわけで、わたしたちは誰一人としてありのままを書くことなどできはしない。濱口竜介がわたしたちに観せてくれた映像は、誰のまなざしだったのだろうか。

 


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