黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

九月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

昼の部の幕開きは『金閣寺』から。

脳梗塞からのリハビリ中の中村福助、五年ぶりの出演となる舞台である。自身の歌右衛門襲名が発表された直後におきた悲劇。こうして歌舞伎座でふたたびその姿を目にするだけで感慨深い。役は動きも科白もわずかな慶寿院だが、声の美しさは健在、わずかな所作で気品を見せる傑作である。右手が使えないようだが、ぜひともさまざまな役をこれからも演じてほしい。

児太郎の雪姫は、刀詮議への使命感、夫のもとへなんとか行って伝えたいという思い、きわめて心の強い意思に満ちた直線的な雪姫。むろん初役のこと、赤姫のなかでも格のあるこの役のもつ柔らかさや風情には乏しいが、ひとつ芯の通った現代的な女性としての役づくりは共感できた。この芸風で『鎌倉三代記』の時姫を観たいと思った。縛られるのは上手の桜。

松緑の大膳は、スケールの大きさや古怪さには乏しいが、近年ますます改善されてきた声が朗々と響き、言語明瞭なのが一番。ことに前半の芝居の流れが明確であったのはこの人のお手柄か。

梅玉の久吉はさすがに手に入った役、たっぷりと歌舞伎味あるよい久吉だが、まわりがかなり輪郭のはっきりした芝居をする中でいささか損をしているように見える。世代の違いもあるが、作ろうとしている芝居のテイストの違いという意味でも配役のバランスは大きな意味を持つ。

 

『鬼揃紅葉狩』は九代目團十郎が初演した河竹黙阿弥の『紅葉狩』とはまた別作品で、能の「鬼揃」の小書を取り入れたもの。黙阿弥版が團十郎という立役のために書かれたのに対し、こちらは女形六代目歌右衛門が初演している。また(それにもかかわらず)長唄の代わりに大薩摩が加わり、舞台も松羽目物のシンプルなもの。

もともと踊りもうまく、女形のいくつかの役においても成功している幸四郎がシテをつとめるが、全体に踊りの見せ場もなく、ツレの若女形たちの毛振りでわずかに盛り上がる。維盛は錦之助。

 

初代吉右衛門から受け継がれた当代の『河内山』。

数年ぶりに演じた今回は、ことに序幕の上州屋店先が良い。これまでと同じく飄々とした河内山の芝居に、ぐっと手強さ、科白の明晰さが加わったことでテンポ感のよい場になった。歌六の和泉屋、魁春のおまき、吉三郎の番頭とのアンサンブルも理想的。

大詰の玄関先の「悪に強きは」の名台詞は緩急自在の名人芸。なかでも河内山が一転「こっちでこのまま帰らねぇ」と啖呵を切り凄むイキの見事さ。いままでと大きく違うのが花道での最後の「馬鹿め」の科白。これまではこってりと引き伸ばして云う吉右衛門独特の云い方が特徴だったのが、今回は短く云い捨てて終わりはぐらかされた。

又五郎の高木小左衛門。北村大膳の吉之丞はもうひとつ突っ込んだいやらしさが出ないと、二人小左衛門のようだ。

幸四郎の出雲守がまた独特でよい。梅玉の演じる時のようなふてぶてしさも鷹揚さもそこにはなく、見たことのない精神的に病んだ「あぶない」お殿様。きっとこのあと河内山は出雲守に殺されるに違いない。研究熱心な幸四郎の素晴らしいのは、河内山との面会の場。河内山のいやらしい説得にどこで折れるかが非常に明確なこと。ダレることの多いこの場が非常にすっきりとした。

 

 

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