黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

東京二期会『三部作』(新国立劇場・オペラパレス)

プッチーニ『三部作』(『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』)

 

【指揮】ベルトラン・ド・ビリー

【演出】ダミアーノ・ミキエレット

【出演】今井俊輔、文屋小百合、芹沢佳通、小林紗季子、北川辰彦、新津耕平、船橋千尋、与田朝子、石井藍、郷家暁子、福間晶子、高品綾野、高橋希絵、鈴木麻里子、小出理恵、中川香里、前川健生、原田圭、小林啓倫、後藤春馬、岩田健志、高田智士、岸本大

【合唱】二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 

9月9日(日)千秋楽。才気あふれる演出家と熟練の指揮者のもと、二期会の若手の健闘によって、近年の二期会の舞台のなかでは群を抜いて素晴らしいものとなった。

 

プッチーニのオペラ『外套』、『修道女アンジェリカ』、『ジャンニ・スキッキ』は一夜のうちに続けて上演する『三部作』として、一九一八年にメトロポリタン歌劇場で初演された。しかしながらそれぞれが一時間足らずのこの三つの作品は、内容的なつながりの希薄さ、舞台装置やキャスティングにおけるコストパフォーマンスの悪さなどから、作曲者の意図に反して初演後かなり早い段階で解体され、個々に他の短いオペラと抱き合わせで上演されるケースが増えていく。今日において「あえて」それを『三部作』としてまとめて上演するには、博物誌的な意味以上の積極的な理由が求められるが、ミキエレットの演出は見事にそれにこたえるものであった。

大きないくつものコンテナを共通の舞台装置として展開する三つの作品でえがかれているのは、広い意味での「欲望」の物語である。

そしてその生々しい内面を包み隠すアイテムとして「衣服」が効果的に用いられる。

 

『外套』は船長ミケーレが、歳の離れた若い妻ジョルジェッタと部下の沖仲士ルイージの不倫に悩み殺人にいたる、ヴェリズモ的な要素のある作品。幕切れ近くに「ひとは誰も外套を持っている。それは喜びを隠し、悲しみを隠し、ときには犯罪をも隠す」とミケーレが歌う歌詞が示すとおり、コートが本心を覆い隠すという役割を担っている。

もう一点重要なアイコンは「赤い」靴である。ジョルジェッタが生まれ育ったパリでの幸せだった暮らしを思いをはせるシーンで、舞台上から「赤い」靴が降りてくる。また、ミケーレがジョルジェッタとのあいだにもうけながら死なせてしまった幼子の思い出として、コートのポケットに忍ばせているのも「赤い」子供の靴だ。いまここにはない、彼らが欲望する対象の象徴として、きわめてわかりやすく観客の前に提示されている。プッチーニはオペラ化に先立って『外套』の演劇版をはじめて観たおりに、真っ赤な鮮血の色をイメージしたとのことだが、この舞台で「赤い」色が象徴するものは少なくない。

難役ミケーレを演じたのは今井俊輔。直情的だけではない、失われてしまった妻との愛をもう一度取り戻そうと揺れ動くさまを丁寧に演じ、この役の現代的な側面を見事な歌唱力で歌いきった。

なんといっても圧巻は文屋小百合。ジョルジェッタと続く『修道女アンジェリカ』のタイトルロールとを一人二役で歌い通したスタミナもさることながら、完璧ともいえる歌唱に、役になりきった自然な演技。

 

ジョルジェッタをセンターに残したままブラックアウト。わずかな間をはさんで照明がつくと『修道女アンジェリカ』がはじまる。前述のように文屋はいどころそのままに続けてアンジェリカを演じる。もちろん二人の女性は役としては別人格だが、子供を失った母親であるジョルジェッタと罪を犯してしまったミケーレの、いずれもを引き継いだ存在としてアンジェリカは位置づけられる。

『修道女アンジェリカ』はもともとは修道院での物語だが、今回は女性刑務所に読み替えての舞台。(宗教上の)罪にある女性が贖罪のために入れられる場ということから修道院=刑務所というイメージはけっして新しいアイディアではないが、リアルに刑務所内の生活を描写するミキエレットの演出は歌詞と合わせて目にしても非常に説得力のあるもの。

前場に引き続き、「赤い」子供の靴が登場する。アンジェリカは未婚の関係から子供を生んだという罪により、子供を残し修道院に入れられている。云うまでもなく、生き別れになった我が子に会いたいという欲望の象徴である。

面会に来た叔母の公爵夫人から子供はすでに死んだ(今回は実は死んでいないのに公爵夫人が嘘をついたという設定)と聞かされ絶望するアンジェリカの前に、八人の子供のまぼろしが現れる。子供たちは服を脱ぎ、靴下を脱ぎ、下着だけの姿になるのだが、この脱衣行為も「我が子に会いたい」というアンジェリカの抑圧していた欲望を開放することを示している。そしてアンジェリカは脱ぎ捨てられた服を丸めて自らの服の中に詰め込みお腹を膨らませることで、妊娠経験を追体験する。

ここからフィナーレまで、音楽的にもきわめて難易度の高い場面を歌いこなしながら、アンジェリカが幻想に取り憑かれていくさまを文屋が見事に演じきった。しかも『外套』から歌い続けて、という前代未聞の大健闘である。

聖母マリアの奇跡により亡き我が子とともに昇天する奇跡という結末は剥奪され、アンジェリカは自ら手首を切り絶命する。救いは次の幕へ持ち越されることになる。

 

休憩をはさんで、一転して明るい『ジャンニ・スキッキ』となるが、演出家ミキエレットの仕掛けがいたるところに張り巡らされており、単純な喜劇では終わらない。

ブオーゾの遺産を狙って滑稽な争いを繰り広げる親族たち。彼らが醜い欲望を胸に秘めながらブオーゾの遺体を囲むとき、手にしているのは火の灯された「赤い」ロウソクだ。そして、欲に目がくらんだ彼らは上着やシャツといった衣服を「脱ぎ捨て」狂乱する。『外套』『修道女アンジェリカ』から引き継がれた人間の「欲望」は、カネに群がる愚者たちの喜劇という、もっとも現代的でわかりやすい様態を見せるに至る。

その現代社会への批判的なまなざしは、次の点でより明確に示される。すなわち、ブオーゾの家の玄関は、メインのアクティングエリアのある一階にある。このことは家を出入りする人物の動線からも明らかだ。しかしそれにもかかわらず、唯一ジャンニ・スキッキとその娘ラウレッタだけは外から来訪するにもかかわらず二階から登場するのである。そしてそののち、親族たちに乞われて階下へ降りていくのだ。欲望のままに迷える愚か者たちと、その者たちから搾取するものとの関係が、きわめて効果的に暗示されている。

ジャンニ『外套』でミケーレを歌った今井が好演。ただしこれは今井の責任ではないが、ジャンニがブオーゾになりすましてロバや製粉所、家屋敷を自分のものにするという、三段構えの騙りの見せ場がいまひとつ盛り上がらなかったのは残念だ。いくらミエミエの「騙り」であっても、ここで笑いを確実に取らなければ大仰な音楽が空回りしてしまう。ジャンニのイキ、まわりの受ける芝居にひと工夫必要で、演出家に再考を促したい。

今井の他にはリヌッチョの前川健生、シモーネの北川辰彦が歌、演技ともに目を引く。

フィナーレになり、ブオーゾの家であった舞台セットは突如としてたたみこまれ、コンテナのある『外套』の場面へと姿を変える。今井演じるジャンニ・スキッキはコートを着て帽子をかぶりミケーレの姿になっている。ミケーレのまなざしの先には、結婚をゆるされたリヌッチョとラウレッタ(お腹に子供がいることが暗示されている)の二人。それはミケーレがジョルジェッタと愛し合っていた幸せな過ぎし日への追憶なのか。それとも若い二人がこれから紡ぐ未来へ託す希望なのか。循環か、開かれた未来か。そしてそこには欲望の、いやいまや希望となった「赤い」靴が。いずれにも見える幕切れは、見事に三つのオペラを『三部作』として上演するにふさわしい感動的なものであった。

 

全体をとおして、ベルトラン・ド・ビリーの緻密な音楽づくりが特筆もの。いわゆる「イタリア的」な要素は希薄だが、かわりにもたらされたスタイリッシュな音楽の運び、個々のシーンをつくりだす繊細な音色は、「映画的」面白さにあふれた今回の舞台にふさわしいものであった。

 


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