黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

通し狂言『平家女護島』(国立劇場・大劇場)

いつもは二段目の切「鬼界島 の段」が『俊寛』として上演されるのみの『平家女護島』。今回は通し狂言と銘打ってはいるがもちろん全五段の通しではなく、いつもの「鬼界島」の場面の前後に「六波羅清盛館」と「敷名浦」をつけくわえたもので、平成七年におなじ国立劇場で上演されたかたちのひさびさの再演になる。一昨年の国立劇場小劇場での文楽公演でも同じような構成で上演されている。

 

序幕「清盛館」は孝太郎の東屋が傑出している。花道を出て七三でイトにあわせて歩みをとめ館を見るイキのよさ。やつれた具合のなかにも色気を感じさせ、清盛がひと目で惚れてしまうだけの美しい東屋。清盛が常磐御前の名を例に出すのを聞いてのわずかな思い入れひとつで、おかれた境遇にたいする恐れを見せるうまさ。「鬼界島のわが殿御、愛しや恋しや会いたやと」と床に語らせ嘆くくどきの哀れさには、意地悪く返事をせまる盛次もさすがに「言葉なく、すごすごと奥に入」らざるを得ないだけの説得力がある。

芝翫の清盛は、座った姿は良いがいわゆる国崩しとしての大きさが感じられず、その古風な容貌にもかかわらずいささか実録ものめいている。また『金閣寺』の松永大膳にも似た権力者の色気が希薄か。もっとも、ほとんどしどころのない今回の構成ではそれも仕方はないのかもしれないが。

全体にものがたりの筋をとおすことに主眼がおかれたカットが施されわかりやすいのだが、さらりとしすぎてもったいない。オリジナルにある教経が東屋の首を清盛につきつけて「この顔がお気に召したのだろう」と嫌味を云う場面などが復活されたら、戯曲としてももうひとつ面白いものになったのに残念。

 

二幕目はいつもの「鬼界島」だが、これがなかなか見もの。

芝翫の俊寛の出はよろよろしすぎず、老けすぎず、体制転覆をくわだてた男の強さ、古風な怪しさがあってよい。祝いにひとさし舞い身体を崩したあと、力強く豪快に笑い飛ばすのも独特。ただ、赦免状に自分の名がないとわかってからは、うってかわって駄々をこねる子供のようで空回りして見え、それが対比を狙ったものだとしてもいささか役の一貫性を欠く。「お慈悲、お慈悲」と瀬尾にせまるのも、それが最後の望みをかけた願いであるにもかかわらず浮いて見える。

この俊寛がふたたびぐっと良くなるのは船を見送ってからである。去る者たちと顔を見合わせての最初の「さらば」はあえて明るく落ち着いて聞かせ、艫綱はためらうことなくみずから海に投げ捨てる。小岩に左手を置いての「さらば」、奥の岩に巻きついての「さらば」もリアルさよりもはっきりと形を見せてきまる。それが「思いきっても凡夫心」からは人が変わったように恐怖の表情を浮かべ打ち震えだす。島にたったひとりで残された想像を絶する孤独という地獄が、その目にはっきりと見えたのだろう。「おおい、おおい」はもはや呼びかけの声ではなく、「あぁ!あぁ!」とコトバにならない狂気の悲鳴となって繰り返される。ていねいに形をきめる古風さと、あられもなくさらけ出される内面とが重なり合っているグロテスクさが芝翫ならではの面白い俊寛になっている。

新悟の千鳥「鬼界が島に鬼はなく」のクドキは硬いがていねいに演じて健闘している。瀬尾は亀鶴。

 

大詰の「敷名裏」は全幕から海岸の場面が続くのが気になる。清盛の後白河法皇殺しと千鳥による救出、千鳥殺しと、筋をとおすだけの幕となっており、派手な立ち回りも、千鳥の東屋の亡霊の出現も、なぜか幕切れに火炎模様にぶっかえる清盛も、その前の幕の余韻をぶち壊す以外のなにものにもなっていない。だいいち、前の幕で俊寛を演じた役者が清盛を演じることが、なにか劇的な効果をあげているようには思えず、無人の一座ゆえの暴挙でしかない。

 

せっかくの珍しい半通しの試みではあるが、総じて責任ある監修者が存在しないことのマイナス部分が目立つ。細部の演出から全体の構成まで、もうすこし煮詰めた舞台であればと思わせる企画であった。

 

 

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