黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

雨降って、かたまらないもの

 

ロンドンのウェストミンスター宮殿(国会議事堂)付近で、EU離脱の撤回を求めるデモが行われた。主催者発表で五七万人というかなり大規模なデモは、もちろんそれがそのままイギリス国民の民意を代表しているわけではないが、いまだにこの問題が国を二分したままくすぶっていることをうかがわせた。

イギリスのEU離脱、いわゆるブレグジットは、経済のみならず民族、宗教などのさまざまなアイデンティティの問題があらわになり、すでになにかの分野の専門家がそのメリット・デメリットを論じても、もはや全体像をとらえることは不可能に近い。それぞれの国民が問題にたいする自分の立場をあきらかにしていても、どれだけその賛否の根拠となる確かなものを持っているかといえば、おそらく甚だあやしいものだろう。しかし、たしかな根拠を持てないからこそ、その対立は感情的なものとなり、重なりあい存在することをかたくなに拒みながらも、なおひとところに生きなければならないといういびつな世界が生まれる。

 

日本においても、憲法改正のための国民投票を実施するための準備が、着々と進められている。憲法改正のためには、衆参両院の総議員の三分の二以上の賛成によって発議された国民投票で、賛成が投票総数の過半数を超えることが求められる。改憲を是とする政党が衆参ともに三分の二以上の議席をしめる必要があるため現状ではハードルが低くはないが、半数ごとの改選という選挙制度ゆえにゆるやかな変化しかもたらされない参議院で必要数の議席が得られたとき、一気呵成に発議まで進む可能性もなくはない。そしていったん国民投票にかけられると、そこでの投票総数の過半数の賛成があれば憲法は改正される。それはいまではかなり現実味をおびてきた話なのだが、その改正内容や改正の是非もさることながら、いまいちど考えなければならないのは、国民投票が行われることの影響そのものである。

ひとつの国家の体制や方向性を大きく転換させるような国民投票を行うにあたり、いわゆる世論や民意といったものは二分される。その投票で問われるものがほとんどの国民にとって納得いくものであれば、それはマジョリティとマイノリティとのあいだの民主主義とはいかにあるべきかという別の問題になるわけだが、賛否が同じような割合でわかれる問題の場合、国民は是か非かのいずれかの選択をせまられ両極に分裂することになる。前述のブレグジットがそうであるのと同じように、日本の憲法改正にたいする賛否は、世論調査などを信じるとすればほぼ拮抗しているようだ。国民投票の結果如何にかかわらず、賛否両派のあいだに修復がむずかしいほどの対立が生まれ、そしてそれがいつまでも解消しないという状況がおおいに考えられる。

 

もちろん、誰もが旗織をあきらかにし意見表明をするわけではなく、すぐさま国を分けての論争になるわけではないかもしれない。しかし得るべき情報をみずからの意志で恣意的に選択できるいまの社会にあっては、潜在化されたはずのみずからの考えや立場に根拠のない自信をあたえ、自分は正しいのだというあやうい自己肯定感をもたらしてくれるものを誰もが欲望する。それは個人のブログであったり、ツイッターであったり、動画サイトであったり、いまだそれなりの影響力をたもっている雑誌や書籍になるわけだが、それらのツールは受け手の自己肯定の欲望を満たすためにますます極端なものになっていくだろう。先日話題になった「新潮45」の休刊騒動などは、そのきわめてわかりやすい一例に過ぎない。

表立っての党派性をもたない現代人だからこそ、過激化するメディアという目に見えるものが浮遊する波のその下で、目に見えない亀裂がつくられていく。見えないからこそ、その亀裂は癒やすことのできない傷となって長く残るだろう。かつて夏目漱石が「個人」を発見したというイギリスにおいてこの混乱ぶりである。ながらく和をもって貴しとなしてきた(ことになっている)この国は、その目に見えない対立にはたして耐えられるのだろうか。

強く美しい国を取り戻したいというリーダーの願いに反して、賛否が拮抗するなかで推し進められる国民投票は、弱く不安に満ちた国をつくることにつながる可能性があるのである。