黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

オフィスマウンテンvol.5 『能を捨てよ体で生きる』

 

オフィスマウンテンの新作『能を捨てよ体で生きる』を観る。

タイトルにある「能」という字は、能力というコトバがあるように、なにがしかの事態を可能にする意識的な「チカラ」やそのはたらきのことを表し、その「チカラ」をはたらかせることを「能動的」という。もちろんそれは「カラタ」に対しての「脳」をも連想させる。

 

意識で追うべきものがたりの欠如した舞台は、それでもやはりなにかをものがたる俳優の身体の動きによって埋められている。おそらくはかなり意図的につくりこまれたものであろうその動きの生みだすリズムと、それぞれの断片やセクションはきわめて明確な意味を持ちながら突如として(しかしこれも明確に意図的に)放たれるテクスト群。

受け手としての観客は、いっけん「能動的」に観ることを許されないように見える。目の前の光景の意味にアクセスすることができないのだから。

 

しかし、作り手のその意図的な構成が見えれば見えるほど、やがてこちらはその断片どうしの関連や類似性に意識を向けはじめる。

それぞれの演じ手の知覚の程度の差のアンサンブル。四人の出演者のなかで「動かない」ことを担当するパートが持ちまわることでトラックがうたれ生じるフレーズ感。なんどか繰り返される音楽は低音と、つながりは希薄だが明確な和音と、メロディへの傾向をかすかに匂わせる高音の三つのパートから成り立っているが、それが舞台上の役者によって、低音の唸り、有意味なセリフ、「あぁ」という高くのばされる声として模倣される形式的類似性。終盤になって二度繰り返されるタラコ唇の男の動きと彼について言及されるセリフが重なりあうさま。

それらの関係性に観るものの意識(脳)がはたらくとき、能動的に頭のなかでクラシック音楽でいうところの「絶対音楽」的な作品の全体性が見えてくる。

 

そのある意味で調和のとれた時間のなかできわめてノイジーに浮いて感じられるのは、奇妙な動きや意味を失われたセリフなのではなく、むしろ頭と身体、コトバとカラダにまつわる作品そのものへの自己言及的な部分だ。それらが目の前で繰り広げられるパフォーマンスへの没入感に水を差す(しらけさせる)のは、意図されたものだったのか。また、その「コトバ<身体」について言及されればされるほど、そのシーンは身体の印象を蹴散らすほどコトバの存在感が増すという違和感の面白さも感じた。結局のところ、洪水のように埋め尽くされた身体のノイズのなかで浮かび上がるのは、コトバなのだ。

いくつもの疑問と違和感をともないつつ、心地よい一時間。もういちど観たいと思わせる舞台であった。

 

 

 

 

 

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