一月は東京だけでも四ヶ所、ほかの都市でも興行があるために、初芝居とは名ばかりのさびしい座組になることも少なくないが、二〇一九年正月の歌舞伎座は松本白鸚と中村吉右衛門のけっして共演しない二人を軸にした座組。まずは夜の部初日を観る。
『絵本太功記』より「十段目」は、吉右衛門の光秀をはじめとして、現在考えられる最良の配役を得た今月一番の見どころ。
いつものように前半はカットで十次郎の出から。葵太夫の語る「奥にと入りにける」は、なんでもないようでいながら、無残にもカットされるその前の場から物語がつながっているように思わせるのが不思議。
幸四郎の十次郎は前半はいささかこの役のやわらかさには欠けるが、鎧姿になってからは戦太鼓を耳にして戦場へ意識を向けるイキ、花道を入っていく姿にリアリティがあって良い。おそらくは意識的に、伝統的な十次郎よりやや年長に役をつくっているように見える。
米吉の初菊は五年前に初役で演じた際には緊張が観ているこちらまで伝わってくるようだったが、見違えるように手に入った様子。十次郎に「鎧もて、聞きわけないか」と云われて「あい」と泣いて応える具合、奥へと引っ込む十次郎を引き止めての幾度かのきまりの形の良さ。なかでも、兜を袂に乗せて引き摺る有名な場面は前回よりもはるかに内容がある。古典芸能におけるものを「引き摺る」ことの意味に加えて、受けとめがたい運命を兜の重さに重ねて感じさせることに成功している。戦に出る十次郎を見送る門口での柱に巻きつくきまりも良い形。
吉右衛門の光秀。 笠を下げて顔を見せる團蔵型の登場は立派な絵になっている反面、五年前も感じたことだが、屋敷のかげから草を分けて出でくる様子がサラサラとしすぎていて、笠を取るまでがうまくつながっていない。せっかくの巨躯に古怪な顔。吉右衛門の良さをいかすうまい工夫はないのだろうか。小田春長の悪行を云いたてる場面はテンポもよく「英傑の志」を感じさせるが、この名調子の名人にしては全体に声が万全ではないように感じられ残念。後半の大落しは派手さをとらず、泣き顔を隠す扇もことさら揺らさずに気持ち本位でリアルに見せる。
東蔵の皐月は小声ではあるが、意味のよく通る述懐を聞かせる。雀右衛門のいささか世話女房にも見えかねない操とともに、リアルな役作りが成功しているように見える。
歌六の久吉、又五郎の正清の兄弟が口跡よくきっぱりと揃い、吉右衛門と三人で立派な幕切れを形作る。
『勢獅子』は梅玉、魁春、芝翫、雀右衛門と若手の踊り。
『松竹梅湯島掛額』は猿之助の紅長、七之助のお七がともに初役でのぞむが、結果として前半も後半も、中途半端な印象が残る。
もともと猿之助は芝居の上手い役者だが、その上手さが災いして、かえって「吉祥院の場」の中身のない他愛なさが悪い意味で浮き彫りになってしまう。時事ネタをふんだんに取り込んだり、アドリブを入れたり、黒子やツケ打ちをも巻き込んだりとメタな面白さもあるのだが、それらが芝居としてまったくつながらない。「紅長」が次世代に生き残るとすれば、今の幹部役者がいなくなって、根本的に本が生まれ変わるときだろう。そこまでして残すべき作品かどうかは別として。
「火の見櫓の場」は七之助の人形振りが見ものだが、これも七之助ほどのウデがあればもっと期待したいところ。
人形振りは、自在に動く人間の四肢の動きを制限して、まるで文楽人形の如く制約された動きを模すことで、常の芝居では出せないものを表現する。役者がその身体を「モノ」と化すことで逆説的にその内面を見るものに想像させることができる。特に八百屋お七系統の芝居にあってのそれは、かたく閉ざされた木戸を前にして「翼が欲しい、飛んで行きたい」というその想いが、制限された身体から放たれるという意味をも持つ。しかし七之助の顔も、手も、本人の意図とは違ってなにがしかを雄弁に語ってしまう。そのため、見るものの想像力がはたらく余地が拡がりにくい。これも猿之助同様に、たぐいまれな歌舞伎役者の身体を持った七之助だからこその課題なのかもしれないが。
人形振りから生身の芝居に戻り、火の見櫓のうえでのツケをともなっての見得は、このうえない素晴らしい絵になっている。花道の引っ込みもお七の悲劇を予感させる逆説的な明るさを見せる。だからこそ、なんとも惜しいと思わせる一幕であった。