新橋演舞場は正月恒例の海老蔵を座頭にすえた歌舞伎公演。初日夜の部を観る。
『牡丹花十一代』は海老蔵一家はじめ一座総出で華やかなお年賀。
『俊寛』は初役で海老蔵が演じる。この場での俊寛は三十代後半という設定だが、流罪の暮らしが長かったからとはいえ、あまりに老けて演じられることが多い。海老蔵は実年齢が近いうえに、消そうにも消されぬ眼力もあって、どんなによろよろしていても政権をゆるがすクーデターの首謀者としての強さが見えるところが良い。しかし、芝居の中身はいまだ探りながらのように見える。
康頼、成経と三人で語らい合う場面ではさらさらとリアルに演じながら「この俊寛にも都には東屋という妻もあり」というくだりがクロースアップされていて、懐かしい妻への想いをふっと見せると同時に、後半の悲劇へのはっきりとした布石になっていて良い。しかし、婚礼の祝いに舞いながら転倒してしまうところや、海上かなたに船を見つけ三人で喜ぶところなど、初日ゆえかうまく芝居がつながらない。
後半上使の出になる。赦免状に自分の名前だけがないことを知ってまさかという驚き、瀬尾につめ寄る具合、これらもすることがぼやけてはっきりしない。赦免状を裏返して確かめる場面や、頭を両手で抱えて嘆くところは、意図的であろうがイトにのらず動きが地味になるため、なかなか盛り上がりを見せない。妻・東屋は四条河原で殺されたと瀬尾が衝撃の事実を告げても、もちろん海老蔵はハラで受けているのだろうが、見ている側にははたして耳に入っているのかと疑うほど反応は薄い。これでは前半せっかく東屋についてのセリフを浮き立たせた意味がない。
この俊寛がぐっと踏み込んだ芝居になるのは、瀬尾にとどめを刺すところ。「上使を切った咎により」あらためて罰を受け島に残る決心がはっきり見え、ドラマが急に立体的に面白くなる。運命に流された結果ではなく、みずから島に残るという選択をすることで、俊寛の気骨が示される重要な場面になった。
終盤、去りゆく船の友綱をみずから海へ投げ入れることにも、その人物造形は一貫して見える。ただ、繰り返えされる「おーい、おーい」はメリハリに乏しく、幕切れに素晴らしく空虚な姿を見せているのに、そこへ至る過程が気が抜けて見え、せっかくの効果が半減してしまい惜しい。
全体に海老蔵は映画のようなリアルさで俊寛をつくっているが、それが彼にあっているかといえば、そうでもない。今回は白鸚に習ったという初演。ひと月を通して試行錯誤が続くのか、それとも再演以降に海老蔵らしさが出るのか、それもまた楽しみのひとつであるのだが。
右團次の丹左衛門は芝居がきっぱりしていることこのうえなく、市蔵の瀬尾も手強さじゅうぶんで名演。「慈悲も情けもみどもは知らぬ」のオウム返しの面白さが生きるのも、この二人のセリフがきわめて明晰だからだ。
『鏡獅子』は海老蔵はすでになんども演じている演目だが、これまで以上に完成度が高い。
もともとこの作品は明治の劇聖九代目團十郎のためにつくられたもので、女形の大役もこなしたとは云えども、九代目はならぶもののない英雄役者であり、真女形のための踊りではない。この踊りが立役の演じる女形舞踊だということを、海老蔵はあらためて教えてくれる。
前シテの弥生はきわめてきっぱりとした踊りで、芯のある動きを見せる。かつては海老蔵も女形を意識してかことさらに柔らかさを作っていたように思うが、今回はそれがない。しかし、だからといってかたさが気になるわけでもなく、不思議な色気を身にまとっている。そして勘九郎とも菊之助とも、亡き勘三郎とも違う、独特な襟をただすような格調高さ。六代目菊五郎に受け継がれる以前のオリジナルはこのようなものであったかもと思わせる素敵な踊りである。
後シテも、近年よく見るような毛振りショウにならず、ひとつひとつの形が気持ち良いほどきまる。誤解を恐れず云えば、まるでそれはギリシャ彫刻のようであり、徹底的に内面を排した硬質な身体のつくりあげる造形美が、見るものからコトバを奪う。
幕開きの家橘、斎入、新十郎、玉朗の四人の芝居は、格調高くありながらセリフがコトバも意味もよく通り秀逸。彼らが下がったあと、舞台に押し出された弥生が手をつくその目の先に、たしかに将軍の座しているのを見るものが想像できるのは、この場の芝居が明瞭だからである。
日吉小間蔵ひきいる長唄の素晴らしさも特筆。