初芝居の昼の部は、いずれも明るく華やかな演目が並ぶ。
『三番叟』に続いて『吉例寿曽我』の外題で出されるのはみなれた「対面」ではなく、工藤祐経の妻梛の葉に曽我箱王と兄の一万が対面するという珍しい一幕。
梛の葉を演じるのは九月に長期療養から復帰を果たしたばかりの中村福助。「双方、控えよ」と力強い声で雪化粧の屋台の御簾が上げられると、高合引に腰掛けた姿を見せる。幕切れには立ちあがって左手に梅の花を持って柝の頭を取るまでの元気な姿を目にすることができる。不自由な右手を使わずともこなせる役がいろいろありそうだ。
芝翫の曽我箱王に、七之助の曽我一万。「しばらく」との声で花道から登場する児太郎の舞鶴がなかなか見事。まさに『女暫』よろしく花道七三でのツラネに「父さん、叔父さん、従兄弟たち」とあるように、まさに一門のイキのあった一幕。
『廓文章』。仁左衛門系の和事を継承しつつある幸四郎だが、意外なことに昨年名古屋御園座での襲名披露での初役にあたっては澤村藤十郎に習ったとのこと。竹本・常磐津での上方版と違って、後半を清元に語らせる江戸仕様である。
その伊左衛門が紙子を着て花道から登場し、「今日の寒さを振りきって」の袂で風をよけて両手に息を吹きかけるきまりは、やわらかさというよりやや直線的ですっきりとした印象。店先へ出て、喜左衛門につかまれた紙子のたもとを撫でる仕草は、指先をパタパタと現代人らしいかわいらしさを感じさせるもの。鼻緒の切れた草履を下駄に履き替えるのは後見をつかわず、菊五郎型でリアルにはこぶ。総じて、歌舞伎の二枚目の若旦那らしいフワッとした古風なやわらかさよりも、掴みどころのない現代の若者を見るようである。
インフルエンザで休演していた東蔵が復帰して演じる喜左衛門。上方らしいやわらかさを感じはするが、病みあがりということもあってか、伊左衛門への気遣い、想いがみえるというほどではなかった。
東京の型なので暗転で場をつなぎ、あかりが入ると炬燵で横になった伊左衛門の後ろ姿からはじまる。喜左衛門とおきさとのからみがカットになっていることで、正月らしい華やかさはなくなり残念。この場も動きにコクがなく、さらさらとしていて下手をするとただの草食系男子のコメディになりかねないが、「さりながら」で花道へ出てから「会わずにいんでは」は思わず引き込まれるあざやかなもの。夕霧のいる奥の座敷をのぞきこむ、襖に身をもたせかけた後ろ姿は抜群の美しさ。もしかしたら幸四郎には同じ東京の型をやるのであれば、なよなよした馬鹿っぷりをあまり見せない、十一代目團十郎のようなシリアスなやり方のほうが合っているのではないかと思わせた。
夕霧は七之助。歩いて出るさまがいささか軽くて心配したが、「わしゃ、わずろうてな」のわずかなセリフのなかに影のある憂いを聞かせて見事。
東京の型ということで、太鼓持とのからみもなし。秀太郎のおきさがひとりで出て手締め。
『一条大蔵譚』は四十七年ぶりという松本白鸚の大蔵譚。
白鸚の独特なのは、作り阿呆をことさら滑稽にやりすぎないこと。そのことで、吉右衛門とも仁左衛門とも、また菊五郎とも違う大蔵卿になっている。檜垣の茶店先のセリフは、声色や顔でことさらに阿呆を表現するのではなく、その「間」を微妙にずらすテクニックで見せる。恒例の椅子から転げおちるのも、コントにはならず、あくまでお京の舞姿に引き込まれて前のめりになることで躓く。「太郎冠者成瀬いるか」のいわゆる「狂言ごっこ」がぐっと本格めいていて、日常会話はどこか理屈が通っていない変人でも、趣味事には人並み以上のこだわりをもつという人物のリアリティが腑に落ちる。幕切れ、花道から鬼次郎の姿をみとめて扇で顔を隠すきまりも、イキひとつで本心に戻るあざやかさ。いつもはハラを割りすぎる傾向のある白鸚だが、ここまでを顔や動きで妙に阿呆を作っていないからこそ、ここで見せる一瞬の真顔がハラを割るまでにはならない不気味なサスペンスを生み出している。
奥殿での二度目の出。こってりとした義太夫味にはいささか欠けるものの、白鸚一流のキレのある身体の動きがここでは非常に面白く、セリフの調子の良さともあわせて、爪を隠していた大蔵卿の躍動を見せる。「六条判官為義は」での中啓をつかってのきまりもきっぱり、薙刀をもってツケ入りの見得まで目の覚めるようなあざやかさ。衣装をぶっかえってイトにのった動きの古風なグロテスクさも特筆。「鼻の下も長成、気も長成」から「ただ楽しみは狂言舞」までていねいに聞かせながら、けっして調子を張らないのが傑作で、けっして単なるハッピーエンドではないことを感じさせる大蔵卿である。やはりここも作り阿呆に戻るでもなく、戻らぬでもなく間ひとつで見せるうまさがある。
白鸚ひさびさの大蔵卿は、隠している本心と作り阿呆の仮面とをわざとらしく切り替えることなく、その表裏が一体となった独特のものである。そのいびつに癒着した人物像は、清盛の目をあざむき生きのびるための政治的な必要から生まれたものだが、白鸚はそこを通り越しある種の「狂気」ともいえるものへと変容した大蔵卿を見せる。いつもなら作り阿呆を見せるたびに起こる笑いが見物から起こらないのは、その白鸚の試みが成功している証拠だ。本心が見えすぎて気の抜けることもある白鸚だが、ここには明かされる本心などどこにもないのだ。ここまで徹底した狂人大蔵卿を演じるのであれば、いつもカットされる「曲舞の場」を復活させればよりそれが徹底されるのではないかと思われた。
常磐御前は魁春。立女形の大役ながら、その格に見合うだけの見せ場に乏しい常磐御前だが、丁寧に演じていて、梅玉の鬼次郎、雀右衛門のお京という絶品コンビとともに好感が持てる。それにしても梅玉の「芸」の若さはさすがのもの。
高麗蔵の成瀬は大蔵卿に「惜しい哉、惜しい哉」と云わせるだけの素晴らしい出来。とくにその自害はたっぷりと演じて泣かせる。