黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』(吉祥寺シアター)

 

ずっと観たいと思っていたNoismの、最新作の東京公演を観る。実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』と『鏡の中の鏡』の二本立て。演出振付・空間・照明は金森穣。高さが一間半程度の、プロセニアム側以外のすべての面を白く塗られたスクエアな空間が共通の舞台である。

 

『R.O.O.M.』。上面(天井と云いたくない)や側面(壁紙と云いたくない)の何箇所もにが小さな隠し扉があり、そこから演者はこの舞台に出入りする。特徴的なのは(まったくすべてではないが)演者あるいは触れ合った演者ユニットは下面(床と云いたくない)から身体を離すことがない。つまり、彼らは厳密な意味で舞い続けるが踊らない。つまり、ほとんどずっと彼らの身体は「アース」し続けており、それがどこか息苦しいまでの身体の密度を感じさせる。

粘着性のある群舞、直線的でクラシカルなパート、「ゼロ・グラビティ」とも云うべき舞台上面や側面の遊歩シーンなど、物語性を排した抽象的ないくつものセクションにわかれており、それが暗転によってつなげられている構成。なかでも印象に残ったのは、三つのユニットにわかれていた演者が、やがてひとりを除いてロダンの『地獄の門』を思わせるひとつのかたまりに変容していく場面。

 

休憩をはさんで、金森穣と井関佐和子のふたりによる『鏡の中の鏡』。基本舞台はそのままだが、舞台上面の三箇所にぼんやりとした青白いシーリングライトが光る。舞台奥のセンターよりやや上手側に大きな透明のアクリル板の壁面があり、これが黒紗幕のようにこちら側を映す鏡になったり、アクリル板の奥に照明が入れば透過する。

うってかわって音楽も身体表現もきわめてエモーショナル。閉塞感あるこの空間(前の演目より登場人物が少ないにもかかわらず狭く感じさせられる!)のなかで、文字通り壁にぶち当たりながら、いらだち、絶望、恐怖をリアルに見せながら相舞う姿は、きわめて演劇的である。求め得ぬみずからの写像をそれでも求めすれ違うふたつの身体。ラストで見合うふたりのイキの素晴らしさにハッとさせられた。

 

 

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