黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

三月歌舞伎座の昼の部は、あまり上演されないめずらしい演目や場がならぶ。

 

『女鳴神』はいわずとしれた歌舞伎十八番『鳴神』の女版。初代團十郎が『鳴神』を初演した元禄九年、おなじ年にすでに上演されたもので、今回は二十七年ぶりの上演。神通力で雨が降らないようにした鳴神尼のもとに、絶間之助がその術をやぶるため訪ねてくる。色仕掛けに負けて騙されてしまい怒り狂う鳴神尼を、最後は花道から佐久間盛政が出て押し戻す。

舞台も流れもほぼ『鳴神』のままだが、鳴神尼が花道から登場することといい、行法を行う手順、やってきた絶間之助の恋ものがたりに引き込まれる様子など、かなりていねいにつくられている。女形が演じるわけだからそれはそれでよいが、いささか地味になっていることも事実。絶間之助が生き別れた婚約者(じつはこれは策略のための噓だが)だとわかると、オリジナルとはことなり鳴神尼のほうからしなだれかかり、夫婦になってほしいと云いだす。そして絶間之助が差し出す酒を、ためらうことなく呑み重ね眠ってしまうのである。『鳴神』では鳴神上人が世間知らずのとぼけたやりとりをしておおらかな笑いの起きるこのシーン、ひとりの哀れな女が見せるなんとも痛々しい姿に客席も静まり返っている。鳴神尼を演じる孝太郎がリアルな芸風の持ち主のため、その印象はより強調されるようだ。しかし、孝太郎は意外なことにぶっ返ってからがよい。小柄な身体が、楓の枝を手に二段にあがってきまった姿はなかなか立派。

鴈治郎は二十七年前も同じ役をやっていたとのこと。前半の絶間之助で和事の柔らかさを垣間見せながら、芯の通った二枚目に見えてよい。鳴神尼にたいしてつねに優位に立ち続ける余裕があり、まるでこちらがシテのようだ。キリで佐久間盛政として押し戻しに出るが、前半と同じ役者とは思えないほど力強く安定した荒事になっている。

 

『傀儡師』は幸四郎。こちらも二十八年ぶりというめずらしい踊り。もともと踊りには定評のある幸四郎、さまざまな役を器用に踊り分ける。

 

『傾城反魂香』は、いわゆる「吃又」とよばれるいつもの「土佐将監閑居の場」の前に、「高嶋館」と「竹藪」の二場をつけたかたちで上演される。このようなかたちでは猿翁や右團次が「三代猿之助四十八番」としていままでなんどかやっているようだが、澤瀉屋系以外では少なくとも戦後では例が無いようだ。「吃又」で幕開き早々に草むらにひそむ虎を退治するシーンがあるが、前場でその由来がえがかれる。ただあらすじをわかりやすくするためだけかと思われたが、絵筆による奇跡、芸術が世界を創造するというテーマの一貫性が見えて、よりものがたりの説得力が増すのも事実。さわやかな幸四郎の狩野元信、色気の増した米吉の銀杏の前。

「吃又」の場は白鸚の又平。歌舞伎を演劇的にとらえることにつとめてきたこの人らしく、三十年ぶりに演じる又平も独特なものになっている。又平はいわゆる吃音者だが、近年では吉右衛門や仁左衛門、故・富十郎などのように、声の良い口跡に優れた役者があたり芸にしてきた。これは、吃りながらもその言葉をときには朗々と歌いあげ、やはりセリフ術の妙技によって泣かせるという逆説的な芸が求められるからである。白鸚もいうまでもなくこんにち有数の調子の持ち主だが、とにかくこの又平は「お願い」と第一声を発してからというもの、徹底的にリアルに吃りつづける。おそらくセリフを知らない観客は、又平が何を云っているのかその半分も聞き取れないだろう。「吃りでなくばこうあるまいに」や「女房までも侮るか」といった時代に張って名調子を聞かせるべきセリフもけっして歌いあげられることはない。言語障害者のある種の傾向をリアリティをもってうつしとっているが、立体的にセリフが立ちあがらなければ歌舞伎の表現にならない。これはだめかと思われたその後半、しかし白鸚がその真骨頂をみせてくれた。

もはやすべての望みが絶たれ絶望した又平は死を覚悟し、女房にすすめられるまま絵筆を取る。そのとき白鸚の身体からはあらゆる感情が削ぎ落とされ、手水鉢を石塔に見立てて無心に絵を画く。その虚無のような異様な迫力は、これまでの誰の又平にもないものだった。あらん限りの言葉を師匠にぶつけ、その自分の言葉の無力さに絶望した吃る又平。その言語を超えたところで、絵筆による奇跡が起きる。石塔を見据えてぐっとイキを込めたその姿から、歌舞伎座の舞台いっぱいにその論理を超越したちからが拡がった。もうそこには、死への覚悟さえもなかったのかもしれない。この又平は、芸術が穴をあけたそのあちら側へ行ってしまっているのだ。師匠に「土佐の名字を許す」といわれ「ありがとうござりまする」と感極まるそのクライマックスで、白鸚の又平はようやく「こちら側」へ戻り、観客とともにカタルシスにいたる。なかなかほかにはないドラマの構成を見せられた。

この白鸚の挑戦をささえたのは、いうまでもなく劇中でも又平をささえる女房・おとくを演じる猿之助である。もともと猿之助は女房役にもっともその芸を特質を発揮する役者だが、今回はもうこれ以上は望めないと思わせるほどの傑出したおとくである。

登場してすぐのたくみなしゃべくり芸はもちろんのこと、認められない夫への気遣い、師匠・将監夫婦への心配り、じつに細部まで行き届いた女房。気落ちする夫を思い、ふと座り込んで左手を階段に置くそのさりげないイキ、将監を奥へ見送ったのちに死を覚悟して二重から左足を落としきまったかたち、いずれも見事なまでに美しい絵になっている。なかでも「手は二本、指も十本ありながら、なぜ吃りには生まれさしゃんした」という有名なセリフが、かつてこれほどまでに切実な悲痛さをもって云われたことがあっただろうか。吃りであるというその一点がゆえに、死ななければならないという、現代ではもはや考えられない理不尽さこそが、この場の夫婦の悲劇を成り立たせているのである。そしてそのリアリティが、さきに述べた「言語のそのむこう側へ」という白鸚の芝居につながっているということは云うまでもない。絵が手水鉢を抜けた奇跡に気がつくのもコミカルな段取りにならず、それと知って腰を抜かしたさまもさすがの身体能力で見どころにしている。まさに一分のすきもない芸である。

土佐将監夫婦を演じる彌十郎、門之助のふたりとも、又平への愛情が随所に感じられてよい。将監の「こやつ、師匠を困らせおるわい」がこれほど痛切であったこともないし、奥方が又平に「こりゃ又平、でかしゃったのう」と衣服を与える場面で、まるで我が子のことのようにここまで喜びを表すのも稀だ。

播磨屋とはまたちがった感動的な「吃又」が観られたことに感謝したい。

 

 

 

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