黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

国立劇場三月歌舞伎公演(国立劇場・小劇場)

 

三月の国立劇場はいつもとちがって小劇場での公演。そして、上置きの中村又五郎以外はいずれの演目とも初役ぞろいという新鮮な舞台。

 

『御浜御殿』は真山青果の代表作『元禄忠臣蔵』のなかでもきわめて上演頻度が高いもの。近年では片岡仁左衛門があたり役とする綱豊卿に、初役となる中村扇雀がいどむ。

扇雀演じる綱豊は、鷹揚でありながらときに気持ちの高ぶりをみせる親藩大名としての風格があり、まるで時代劇全盛のころの映画を観ているようだ。これほどまでに綱豊のセリフが明晰でかつ意味が明確に聞こえることはかつてなかったと云ってよいほど、細部までていねいに演じられており、現代人にも共感できるドラマがはっきりと浮き彫りになった。今回が小劇場の公演であるということを意識したつくりかたなのかもしれないが、そのリアリティは仁左衛門、梅玉といったほかの役者とはまたちがったものであり、見ごたえのある新しい綱豊の誕生という意味では大成功と云える。

ただし、演劇としてクオリティの高いものになっていながら、それでもやはり歌舞伎として物足りないのは、音楽的とも云える真山青果ならではの歌い上げるセリフが聞かれないことだ。「〜なのだ」「〜だぞ」といったような独特の真山節は、その語尾まで力強く云い切ることで不思議な説得力をもって聞くもの(観客にも、もちろん目の前の助右衛門にも)に迫ってくる。だが扇雀はことごとく「名詞」をその頂点にもってきたあとに語尾を抜く。それは現代的な演劇の感覚からは自然ともいえるのだが、どうじにセリフが立体的に立ちあがることを妨げ、歌舞伎的な声の陶酔を失わせる。また、「瑶泉院どの」と云うべきを「瑶泉院さま」と云ったり、「盃をくれようと云うのじゃ」を「盃をあげようと云うのじゃ」と云ったり、役の立場の根本にかかわるミスが多い。またこれは意図してのことだろうが、書院の場でのクライマックスで富森助右衛門が「浅野家再興、ご内願の儀は…」と詰め寄るのを受けて、本来「なに!」とうけて顔を見合わすべきところだが、扇雀はこの「なに!」を云わないで無言で受ける。もちろんひとつの考えではあるが、それでは緊張感の頂点をそこに持ってくることはできない。セリフによって芝居を組み立てていくという意識が希薄にみえてしまう、ひとつの残念な例である。

又五郎の新井勘解由はさすがの貫禄と存在感。数右衛門の歌昇は前半は空回りしているが、綱豊を問いただし詰め寄る場になってぐっと芝居がよくなった。

 

『積恋雪関扉』はまさかと思われた菊之助の関兵衛で。この世代を代表する女形としてキャリアを重ねてきた菊之助だが、この数年その守備範囲にはないだろうと思われた大役に挑戦している。『髪結新三』の新三などの音羽屋の家の芸はまだしも、『義経千本桜』の知盛や今月の関兵衛など、岳父・吉右衛門のあたり役を演じるのは、意欲的なレパートリーの拡張なのか、それとも次世代への継承のいち過程にすぎないのだろうか。

菊之助の関兵衛は、もちろんひとこと「ニン違い」と云えばそうとしか云いようがない。浅葱幕をきって落として見せた姿はなかなか素敵なものだが、動き出したとたんににじみ出る違和感は否定できない。しかしそれでもこの関兵衛が面白いのは、その動きの面白さだ。細部までていねいに踊ることで出るリアリティがある。「一体そさまの風俗は」からのあて振りや、後半で墨染とやりとりする廓の描写は、その菊之助のきっぱりと動く身体によってじつに生き生きとしたものになっている。またたいへん意外なことに、ぶっ返って大伴黒主の正体を見顕してからが、古怪さはなくともスケールがおおきく、なかなか見応えがあった。

小町/墨染を演じる梅枝は、こちらはニンということで云えばこんにち誰よりもはまっている。同世代の七之助がもつ現代的な妖しい美しさとは対照的な、きわめて古風でかつどこか醒めた美しさが十二分に活かされ、初役とは思えない完成度。もちろん前半の上品な小町もていねいに演じているが、とくに後半墨染として桜の陰からあらわれた姿のモノクロ的な美しさに息を呑む。関兵衛との廓話ではこってりとした色気をていねいに見せ、正体を顕してからは不気味なまでの冷たさで黒主にせまる。どんなベテランを相手にしても負けない素晴らしい小町/墨染である。

宗貞は萬太郎。身長のあるふたりとならぶと小柄で損をしているが、セリフも踊りもていねいでしっかりと対抗している。

 

観るまでは珍しい配役を楽しむぐらいのつもりであったが、なかなか充実した見ごたえある二幕であった。

 

 

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